Hello!My family 第1章
不死川の立場はあくまでもオブザーバーだ。炭治郎と契約を交わし、ひとつ屋根の下で暮らしていくのは、ほかの誰でもない義勇自身である。赤の他人な炭治郎と一緒に暮らしていくのだから、こういった出来事はそれなりにあるだろう。そのたび不死川たちのフォローを求めるわけにはいかないのだ。
だが、炭治郎が悲しむその理由が、義勇にはわからない。迂闊なことを言えば、さらに悲しませてしまうかもしれないと思うと、言葉などまるで浮かんではこなかった。
常日頃、人を苛つかせがちな自分を自覚している義勇にしてみれば、自分がなにか言えば炭治郎の悲しみを深くしてしまうだけな気がしてならない。
わからないことばかりだ。けれどわからないままにしていては、問題はひとつも解決しない。
情けさなさいかんともしがたいが、素直に問い質すよりほかないだろうか。
聞いたところで、頑固な炭治郎が素直に答えるとは限らない。けれど少なくとも、炭治郎を悲しませる意図など義勇にはなかったことぐらいは、伝わるかもしれない。
意を決して口を開きかけた義勇だったが、その声は、玄関から聞こえた禰豆子の「ただいまぁ」という声に、音になる前にひっこんだ。
「テメェらがもたもたと給料でもめっから、禰豆子が帰ってきちまったじゃねぇか」
不死川のあきれ声に、とっさにパソコンの時刻表示を見れば、もう正午が近い。昼は外食と伝えてあったのだから、伊黒たちが戻ってくるのも道理だ。もめたことも事実だし、まったくもって反論のしようがない。
あわてて腰を浮かせかけた炭治郎が、困ったような顔で義勇と不死川を見る。迎えに行きたいが、今は面談中だ。どうしよう。そんな逡巡がありありと伝わってくる様子に、義勇も、どうしたものかと不死川に視線を向けた。
ふたりの視線を期せずして集めてしまった不死川はといえば、あきれ返った顔でため息をついていた。
いたたまれぬ気分で、思わず義勇は炭治郎と顔を見あわせた。困り顔ながらも苦笑を浮かべた炭治郎からは、悲しみの気配は消えている。
「パパ、お兄ちゃん、お話終わった?」
パタパタと近づいてきた小さな足音が途絶えたと同時に、襖が小さく開いて、禰豆子がひょこりと顔をのぞかせた。
「おー、ワリィな、禰豆子。もうちっと待っててくれやァ。オラ、さっさと今できる契約を済ませんぞ」
はぁいと返事し、襖を閉めた禰豆子は、不満などまるでなさげな笑顔だ。だがあまり待たせるわけにもいかない。
不死川にうながされるままに、契約書の確認をし、プリントアウトするあいだも、義勇の胸中は迷いでいっぱいだった。
重い空気が消えたのはありがたい。けれどこのままうやむやにしてしまってもいいのだろうか。
炭治郎がもう気持ちを切り替えているのなら、もう気にすることはないじゃないか。そんなふうに忘れてしまいたい気持ちは、義勇にもいくらかある。だがそれでは問題を先送りするだけだ。
知り合ったばかりの他人と暮らすのだ。いくら炭治郎が心安くあろうと、まだ互いにわからないこと、知らないことのほうが多いのに違いはない。諍いまではいかずとも、こういった些細なずれや衝突は、たびたびあるだろう。
そうして生まれたヒビは、少しずつ大きくなり、気がつけば修復できない大きな溝となるに違いない。後悔したくないのなら、避けて通ってはいけないのだ。
わかっているけれど、だからといって、即決断することもできない。
炭治郎がもう気にしていないのなら、話を蒸し返すのはかえってよくないかもしれない。流してしまえばそれで済むものを、なぜわざわざ? と、炭治郎を不快にさせないとも限らないではないか。そんな言い訳が浮かんでは消える。
人とかかわらずに生きてきたから、経験値が少なすぎて、こんなときどうするのがベストなのか義勇には判断がつかない。三十年近く生きてきてさえ、義勇が『普通』に人づきあいができた時間など、わずかでしかないのだ。
六歳だった。『普通』でいられたのは、たった、六年。
ふと浮かんだ当時の記憶に、ヒュッと息を飲む。
――割れた鏡台、引き裂いた服、塗りつぶした写真たち。
幻覚のように目の前にちらつく光景に、呼吸が浅くなる。息が苦しい。眩暈がして、視界が回る。
『ほら、やっぱり似合うわ。とってもかわいい。×××なんだから、かわいくしてなくっちゃね。ね、××』
笑う声が耳の奥にこだまする。なのに、それがどんな声だったのか、もう思い出せない。言葉だけが文字となって、脳のなかを暴れ回っている気がする。脳が真っ黒な文字で埋めつくされていく。
『違うよ、××××! 俺は×××じゃない。×××じゃないんだ、俺は××だよっ。ちゃんと俺を見てよ……っ!』
叫ぶ声は、いつだって胸のうち。音には一度としてならず、今も義勇のなかでのたうち回っている。
『もう××××××でくれ……っ!』
吐き捨てるように呟いた自分の声がよみがえる。幻聴ならよかったのに。けれどあれは紛うことなき現実だった。記憶に焼きついた呟きは、たしかに義勇が口にしたものだ。取り消せない、もう二度と。後悔しかない言葉だ。だが本心だった。あのとき義勇は、心の底からそれを願った。
だからこそ、今も消えない。償えない……!
――駄目だ、落ち着け。
義勇は必死に自分へと言い聞かせた。プリントした書類を炭治郎に手渡す手が震えぬよう、こっそりと大きく深呼吸する。
三年。少なくとも高校の卒業資格を得るまでの三年間は、炭治郎にはこの家にいてもらいたい。きちんとした企業に勤めるまでのあいだだけでもいいのだ。そのあいだ、炭治郎にはこの家で、自分と禰豆子のそばで、笑っていてほしかった。
そうだ……自分の過去を知られるわけにはいかない。知れば炭治郎だって忌避するだろう。義勇を嫌悪や軽蔑の目で見ないとは限らない。考えた瞬間、義勇の胸はしんと冷えた。
知られたら、炭治郎に嫌われる。
思っただけで、義勇は理解不能なほどの動揺にみまわれた。
人に嫌われるのはもう慣れているはずだった。自分ではそこまで嫌われるようなことをした覚えはなくとも、他人は義勇を厭うことが多い。嫌悪の瞳に気づくたび、悲しいと思いはしても、しかたのないことだとあきらめるのは苦じゃなかった。
嫌わないでくれなどと言えるほど、自分に価値はない。だから義勇は、気にしないよう努めてきたし、あきらめてもいた。
なのに、なぜ炭治郎に嫌悪されると思うだけで、こんなにもつらいのだろう。
最初は、禰豆子のためだった。
禰豆子が懐いているから。炭治郎といると禰豆子が明るさを取り戻せるから。ただそれだけだと思っていた。思いこもうとしていた。けれども、今は、義勇自身が炭治郎に笑顔でいてほしいと願い始めている。もうごまかせない。自分こそが、炭治郎にそばにいてほしいのだ。
まともではない自分では、禰豆子に『普通』の暮らしをさせてやれない。そんな強迫観念もあるにはあるが、炭治郎の幸せを願う心も、義勇にとっては真実だ。
作品名:Hello!My family 第1章 作家名:オバ/OBA