Hello!My family 第1章
恩返しといえば大げさかもしれない。けれども、笑っていてほしいのだ。安定した衣食住だけでは足りない。幸せであるには、それだけでは満たされることがないのを、義勇は知っている。
炭治郎が笑っているだけで、心がやさしい温もりに満たされる。炭治郎にもそうあってほしい。
自分と過ごすことで、とは、言わない。そこまで図々しい望みは持っていなかった。望んではいけないとも思っている。
義勇はそっと炭治郎を盗み見た。
自分のような男が炭治郎の人生に深くかかわるなど、あってはならないだろう。不死川たちが聞けば、どうしておまえはそんなにも卑屈なのだと責められそうではあるが、義勇にとっては覆しようのない事実だ。それだけは、どうしたって変わらない。変えられない。
義勇の葛藤や焦燥は、炭治郎にはもちろん、不死川にも気づかれてはいないようだった。
慎重に書類に署名捺印していく炭治郎は真剣な顔だ。不死川も確認作業に気を取られているのか、義勇のことにまで気が回らないように見えた。
悟られなくて幸いだ。義勇は安堵のため息を飲みこんだ。
「ん、まぁ、こんなもんだろ。オラ、テメェもちゃんとチェックしとけ。俺にだけ任せてんじゃねぇよ」
「すまない」
ひらひらと振られる書類を受けとり、義勇は紙片にまなざしを走らせた。ざっと目を通した限りでは、問題はないようだ。
義勇が署名していくのを、炭治郎はなんとはなし緊張した面持ちで、じっと見つめている。すべての書類に判を押し終えたと同時に、ハァッと大きく息を吐きだした炭治郎は、ホッとしたように笑った。
「あとは鱗滝さんに署名と捺印してもらったら、契約は終わりですよね」
「あぁ。近いうちに俺からも連絡を取る。報告の際にはよろしく伝えておいてくれ」
義勇の声は我ながら平坦で、感情の揺れは表れてはいない。
大丈夫だ。ちゃんと話せる。先までの恐慌状態は、炭治郎には伝わっていない。深い安堵に、義勇の口からもついため息が落ちた。
「あの、意地になっちゃってすみませんでした。こんなに時間とらせて……禰豆子を待たせちゃうなんて、申しわけないです。義勇さんも嫌でしたよね。ごめんなさい」
しょんぼりと肩を落とした炭治郎に、薄れかけていた懸念が再び頭をもたげた。
炭治郎が悲しげだった理由は、まだわからないままだ。
今、落ち込んだ様子でいる理由なら、はっきりしている。義勇のため息を、疲れや腹立ちからだとでも勘違いしたのだろう。理由の知れないことについてはともかく、現状の勘違いについては正しておかねば。焦りながら、義勇は炭治郎を見つめ口を開いた。
「お互い様だろう」
炭治郎をうまく説得できなかった自分にも責任はある。義勇にしてみれば炭治郎ひとりが反省する必要など皆無だ。むしろ今のため息が炭治郎を不安にさせたのなら、誤解させた自分こそが反省すべきだろう。気にすることはないと義勇がじっと見据えれば、ちゃんと伝わったのか炭治郎も少し瞳を明るくした。
先ほどの一幕についても、原因はきっと自分にあるに違いない。かすかな笑みを浮かべた炭治郎を見つめたまま、義勇は思った。
きちんと理由を知り問題解決するべきだとの決意は、禰豆子たちの帰宅で機先を制された形になったが、わだかまりを残したままというのはよくないだろう。幸い、炭治郎は義勇の言葉に安心したのか、重ねて謝ることはなかった。このまま、先ほどはなぜ悲しそうだったのかと、聞いてみればいい。
思いはするが、臆病な心が邪魔をして、義勇はやっぱりその先の言葉をつむぐことができなかった。
不死川は言葉をえらべと言ったが、自分の言葉のなにが悪かったのかが、義勇にはわからないのだ。判断がつかない以上、問う言葉自体がまた炭治郎を傷つけることだってないとは限らない。そんなことを思いついてしまえば、不安ばかりがふくらんで、義勇は炭治郎に話しかけることができなかった。
「おい、終わったか?」
襖の向こうから伊黒の声がした。炭治郎が立ちあがり襖を開ける。義勇が言葉を見つけられないまま、面談は終了だ。時間を置けば、より聞き出しにくくなるのはわかっているが、禰豆子のことが気にかかるのも事実である。これ以上待たせるわけにもいかないだろう。
プリンターを片付けだした不死川につづき、義勇がパソコンの電源を落として書類を整えていると、禰豆子を抱いた甘露寺も部屋に入ってきた。
「禰豆子、待たせて悪かった」
「いいよ」
甘露寺から禰豆子を受けとり、抱っこしたまま謝れば、禰豆子はいつものように笑って答えてくれる。その笑みには憂いなどどこにもない。甘露寺や伊黒も来てくれてよかった。義勇が微笑み返したのと同時に、きゅるると小さな音がひびいた。禰豆子の腹の虫だ。
「あらら、禰豆子ちゃんお腹空いちゃった?」
「まったく、おまえらがもたもたしているからだぞ」
ツンと禰豆子の頬をつついて笑った甘露寺も、皮肉な目つきで義勇たちを眺めまわした伊黒も、なにも気になどしていないだろう。ワリィな禰豆子と謝る不死川も、「なにか小腹ふさぎになるものあったかな」と台所に向かおうとした炭治郎だって、禰豆子を責めるそぶりなどかけらもない。義勇だって同じことだ。
けれど、禰豆子にとっては空腹を訴えるどころか、それを悟られることすらが、トラウマを刺激したようだ。
ギュウッと義勇のシャツを握りしめて胸に顔を押しつける禰豆子に、思わず義勇は、小さな体を抱きかかえる腕に力を込めた。
「禰豆子、誰も怒っていない。お腹が空いたならそう言っていいんだ。誰も怒らない。腹を空かせるまで待たせた俺が悪かった。すまない」
ごめんなさいと震える声で言われるのが嫌で、義勇は、禰豆子が口を開くより早く小さな頭に顔を寄せると、静かな声でささやいた。
焦りを悟らせぬよう、ゆっくりとつむいだ声は、禰豆子の耳にやさしく届いただろうか。
失態に気づいたのだろう、ハッと目を見開いた同僚たちは、一同に息をつめて義勇と禰豆子を見守っている。禰豆子の事情をよく知らない炭治郎もまた、禰豆子の様子や義勇たちの反応に、なにがしか悟ったに違いなかった。
誰もが身動きひとつできずに息をつめているなか、そっと近寄り禰豆子の頭を静かに撫でた炭治郎に、義勇は目を見開いた。
「禰豆子、お腹が減るのは元気な証拠だぞ? みんな、お腹が鳴るぐらい禰豆子がいっぱい遊んできたのがうれしいってさ。俺も、禰豆子がお腹空いたってご飯をいっぱい食べてくれたらうれしいよ。それに禰豆子はちっとも悪くないぞ? 悪いのは早く終わらせなかった俺のほうなんだから、禰豆子はお腹空いたよって文句言っていいんだぞ? ごめんな、禰豆子」
そろりと禰豆子の顔があげられた。炭治郎と義勇の顔を交互に見上げて、「いいよ」と呟いた顔は、まだ少し青ざめている。それでも涙はそこにはなく、声はしっかりとしていた。
ほぅっと聞えた小さな安堵のため息は甘露寺のものだろうか。見れば不死川や伊黒でさえも、見るからに肩の力を抜いて安堵の色を浮かべている。
「よしっ、それじゃなにかちょっとだけ食べたら、お着替えしようか。せっかくみんなでお出かけするんだもんな。おめかししような」
作品名:Hello!My family 第1章 作家名:オバ/OBA