Hello!My family 第1章
「……いいよ」
頼りなく幼い体から、こわばりがゆっくりと解けて、細い腕が義勇の背にまわされた。ギュッとしがみつく手は、まだ少し震えている。傷ついたのは禰豆子のほうなのに、いいよと義勇を許す禰豆子の心根の優しさが、胸に痛かった。
「パパ、大好き」
「うん。俺も禰豆子が大好きだ」
こんな未熟な自分を慕い、大好きとすがりついてくれる禰豆子が、ただただ愛おしかった。
「お客様、なにかございましたか?」
不意にかけられた声に、腕のなかで禰豆子がまた体を固くする。大丈夫だと伝わるように頭をなでてやり、義勇は声の主へと視線を向けた。
「店長さん」
「竈門くんか……お客様、こちらの店員がなにかしましたか?」
戸惑いをあらわに炭治郎が口にした呼びかけが、義勇の視線を険しくしたのはしかたがないだろう。初老の男が炭治郎の名を呼んだときの、どこか蔑んだようなひびきに気づいてしまえば、なおさらだ。
「いや、こちらが悪い。この子はなにもしていない」
「そうですか? 新人なもんですから、いたらないところも多くて……竈門くん、本当にご迷惑をおかけしてないね?」
「お兄ちゃんはなんにも悪いことしてない!」
叫ぶ禰豆子を抱き上げて、義勇は、ギョッと目をむき怪訝な顔をする店長に、冷めた視線をすえた。
目が据わっているだろうことは自覚しているが、炭治郎への仕打ちを思えばこれぐらいは許されるだろう。禰豆子にしでかしてしまった失敗に対する自己嫌悪の、八つ当たりも多分に含まれているが、大した問題ではないと思った。
「あ、あの義勇さん。さっきの本当に……」
「禰豆子を頼む」
息をつめ義勇と禰豆子の様子を見守っていた炭治郎は、店長に対峙した途端に、義勇が怒りの気配をにじませたことに気づいたらしい。義勇を止める様子をみせたが、禰豆子に腕を伸ばされては断るという選択肢はなかったようだ。
しっかりと禰豆子を抱きかかえる仕草は、義勇よりよっぽど子供の扱いに慣れているそれだ。
炭治郎と禰豆子の不安げな顔をチラリと横目で見て、義勇は店長に向き直った。険悪なシーンを禰豆子には見せるわけにはいかない。炭治郎を不安がらせ、困らせるのも本意ではないのだからと、務めて冷静に義勇は口を開いた。
「勤務中の竈門くんに声をかけ、仕事の邪魔をしていたのはこちらのほうです。申し訳ありません」
「あ、あぁ……いえ、それなら別に……」
「ただ、さきほど気になることを聞きまして、二、三あなたにお聞きしたいことがあるのですが。竈門くんの勤務状況について」
意味はわかるだろう? と言外に込めてじっと店長を見据えれば、初老の店長は滑稽なほどにうろたえた。根は小心者なのだろう。言い訳が頭のなかを猛スピードで巡っているが、うまい言葉が出てこない。そんなふうに見えた。
「早急な改善を求めます。こちらも穏便に済ませるに越したことはないので」
「……労働監督署に訴えると?」
「違法行為を通報するのは市民の義務ですから」
今ならば目をつむると、ひそめた声で義勇が言うより早く、店長が震えながら大声をあげた。
「みなしごを雇ってやってるんだ! 部屋だって格安で住まわせてやってるんだぞ! ちょっとぐらいただ働きしたって釣りがくるぐらいだろうが!!」
背後で炭治郎が息を飲んだのがわかった。背中に伝わるのは、禰豆子がおびえる気配。
もういいだろう? こいつは駄目だ。保身と責任転嫁で身勝手な理論を振りかざす男に、反吐が出そうだ。叩きのめしたらスッキリするぞ。
頭の片隅で誰かがささやいた気がしたが、義勇はそれでも激昂を抑えつけた。義勇まで声を荒げれば、禰豆子が不安がる。おびえてしまう。暴力などもってのほかだ。
「……あなたが所有する物件に、竈門くんは住んでいるということでしょうか? 寮という扱いになるかと思いますが、超過勤務分の給与に見合うだけの寮費ともなると、相当な額になるのでは? 差別的な言葉で貶める割には、ずいぶんと豪勢な部屋を提供しているようだ。――炭治郎。部屋の間取りは?」
「え? あの……」
おいっ、と声をあげて店長が炭治郎の返答を制止しようとするのを、睨みつける視線で制して、義勇は早く言えと炭治郎をうながした。
「……四畳半の和室、です」
「風呂、トイレ、台所」
「ありま、せん……」
炭治郎の消え入りそうな返答に眩暈をおぼえて、義勇は、思わず出そうになったため息をどうにかこらえた。部屋数と広さは案の定としか言いようがないが、さすがにトイレすらないのは予想外だ。
おそらくは、社員の仮眠用の部屋にでも住まわせているのだろう。それとも自宅の物置に畳を敷いた程度の代物か。
いずれにしても、劣悪すぎる環境であることに違いはない。
「……今までの未払い分の時間外手当だけは出せ。今日で炭治郎は退職だ。それで通報されずに済むなら安いものだろう」
「義勇さんっ!?」
きっと炭治郎の顔は青ざめていることだろう。職を失うよう仕向けたのだから、当然だ。だが、このままでいいわけがない。
義勇はひとつ大きく息を吸い込むと、決心した。
今から自分が告げる決断は、おそらくははたから見れば正気の沙汰ではないのだろう。それぐらい世情に疎い義勇にも推測できる。わかっていながら決断をくつがえす気にはならない理由は、禰豆子が慕っているから。理由はそれだけでいい。
「うちには部屋が余っている。今夜からうちに住め。住み込みの家政夫として俺が雇う。詳細な労働条件はうちに着いてからだ。荷物はどれぐらいある?」
炭治郎の顔を見て告げる勇気は、まだ少し足りない。振り返ることなく言った義勇の背に、炭治郎の視線が突き刺さる。
「へ? え、あの……」
「……お兄ちゃん、禰豆子のおうちに住むの?」
状況が飲みこめないのかうろたえる炭治郎の声にまじり、禰豆子のあどけない声が聞こえて、義勇はようやくゆっくりと振り向いた。
「……炭治郎がよければ」
茫然と義勇を見ている炭治郎の顔に、義勇は、ふと気づいたその事実に小さく笑った。
目を丸くして驚いている炭治郎の顔は、どことなく禰豆子に似ている。
――あぁ、そうか。禰豆子が懐いているだけでなく、人に関心を持てない自分まで不思議にすんなりと炭治郎を受け入れていたのは、禰豆子に少し似ていたからか。
気がついてしまえば、咄嗟の思いつきに近い提案も、浮かぶべくして浮かんだものだという気がした。
「お兄ちゃん、禰豆子のおうちは嫌? 禰豆子とパパとお兄ちゃん、みんな一緒がいいよ。ダメ……?」
期待のこもった、けれども少しおびえた禰豆子の声に、炭治郎が困惑している。目まぐるしい状況の変化についていけないのだろう。気持ちはわかると少しだけ苦笑して、義勇は、禰豆子をしっかりと腕に抱いたままの炭治郎に向き直った。
まっすぐに炭治郎を見つめ言う。どうか断らないでくれと願いながら。
「できるだけ待遇は優遇するようにする。禰豆子を悲しませたくない。頼む」
「あ、頭なんて下げないでくださいっ!! あの、俺……よ、よろしくお願いします!!」
ぺこりと勢いよく頭を下げた炭治郎に、腕のなかの禰豆子がきゃあっと楽しげな悲鳴をあげた。
作品名:Hello!My family 第1章 作家名:オバ/OBA