例えば、こんなメロディをポケットに響かせて。
それは、ありがとう――という言葉。
「十年も、くれたんだよ。俺達に」夕は、小さく笑った。
磯野波平は、鼻水をすすった。顔はテーブルに伏し、両腕で隠れて見えない。
「まだ幼かった少女が、いつの間にやら……魅力的な大人の女性に、なったでござるなぁ……」あたるは泣いたままで、微笑んだ。「いくちゃん、どう、言えばいいのでござるかな……。小生は、いくぢゃんが、だいずぎでござる!」
夏男は微笑んで、頷きながら、そっとキッチンを後にした。
ここに来て三十分も経たないうちに、夕君も波平君も、僕も泣いていた。
それはあまりにも長い道のりで、振り返れば綺麗な雪の結晶に、想いの詰まった軌跡がくっきりとついている。
十年という月日をそう例えられた歳月(とき)の轍(わだち)は、今の僕らには少し寂しさが凄すぎて、愛が込められすぎていて……、なんだか泣けてきた。
泣き顔を隠した波平君のイヤホンから、それははっきりと聴こえていた。
次の世界へ旅立つ為に、新しい自分に生まれ変わる為に、悲しみの全てを雪に消してもらう。それはまるで、僕らの短いこの逃避行のようでもあった。
けがれなき結晶達。それは、一つ一つが、違う形をした夢の結晶であり、ついに達成した目標を記した旅の日記のようなものだ。確かに掴んだと思ったその一瞬は、十年という月日に変わり、降り積もっては、溶けて消えてゆく。
後悔など、一片の欠片さえない。
懸命に必死に、坂を上ってきたのは彼女自身だ。
そして、がむしゃらに坂を上っていく彼女を、人知れず支えてきた僕らは、息を呑んだんだ。
そんな彼女が見せてくれた、数々の景色に――。
ふと彼女を想い、何度、空を見上げただろう。
涙を堪える為に、何度眼をつぶってきた事だろう。
その度に、笑う彼女の顔が誇らしく思えて……。
かけがえのないものが、今僕の心臓の中にある。
もしも、今が戦時中で、食べるものもろくすっぽない状態だとして。僕らは毎晩腹を減らしながら、くたくたになって、どれぐらいぶりなのかもわからない、ひとかけらのパンを手に入れる。
僕はきっと、そのパンを、君にあげると思うんだ。いくちゃん、君に生きて欲しいから。
僕らファン達は、そのひとかけらのパンなんだ。明日生きていく君の糧になれれば本望なんだよ。
あとは、少しだけ笑ってくれれば、いう事なしだ。
「あは、寝ちゃってる」夏男は静かにキッチンのドアを閉めた。「疲れたんだろうね。長旅、ご苦労様」
「眠りながら、さっきつぶやいたんですよ」夕はあたるを一瞥して、夏男を見た。「ありがとう、ですって……」
「そっか……。こっちは?」夏男はよだれを垂らして寝入っている磯野を指差した。
「じゅんばんこだろうが、ですって……」夕は苦笑した。「何の夢でしょうね、こいつは」
「順番を守ってる夢、だね。あは、なんだろう」夏男はキッチンのテーブル席、あたるの隣の席に着席した。「ダーリンは弱い。これからも、よろしくね」
「俺らじゃないですよ」夕は微笑む。「それは乃木坂だ。彼を、俺らを鼓舞(こぶ)してくれる。そんなん、あるようで、今の時代に無い存在ですよ」
「感謝しなきゃね」夏男はゆっくりと、頷いた。
「運営さんが尊い。乃木坂を愛している事が手に取るように伝わってくるんです……。乃木坂に携わってくれてる、全てのスタッフさん達も温かい。運営、つまり育ての親や師匠や、先生や、先輩達なんかが素晴らしい人達でないと、こうはまっすぐに成長できないですよね。本当の親御さんや兄弟なんかも、素晴らしい人達なんだと思います」
「乃木坂に携わっているのは、夕君達ファンのみんなもそうだよ?」夏男は試すような口調と表情で、夕に言った。
「これは恋なんだ。終わらない初恋、みたいなものですかね。抱きしめる事はできないけど、好きと伝える事はできる。じゃあ、人生で現わしますよ、俺は」
「夕君は、どうして乃木坂を?」夏男は夕をまっすぐに見つめた。
「本当に、自然な話なんです。気づいたら、片想いでした」夕は夏男に、にっこりと微笑んだ。「よく頑張ってるのが伝わってきて……、可愛いだけじゃダメのか、て思いましたよ。気づいたら、注目してて、気づいたら、泣いたり笑ったりしてました」
「そっか~。あは、誰かさんもおんなじような事言ってたっけ」夏男は深く納得した。「波平君も、イナッチも、駅前ちゃんも、きっとあるんだろうね。きっかけ」
「かけがえのない出逢いだと思っています」夕は磯野とあたるを一瞥した。「俺に、色んなものをくれた。消えかけてた情熱も、乃木坂との出逢いでまた燃え上がった。今は、やる事をやりきって、乃木坂を見つめている事が、優先順位の最先端です」
「そんな素敵な人生っていいね!」夏男は慣れないウィンクをし、微笑んで、親指を立てた。「今日はお祭り、て事で、夏男カレー、夜いっちゃう?」
「いっちゃいますか」夕はにっこりと微笑んだ。「ほら、波平……。ダーリン、起きろ」
「そう言わずに…パンを受け取って下され!」
「だからよぉ、箱推しってなぁ…好き、つう意味だろうが……」
「見事なまでのねぼけ方」夕は座視で二人を見つめた。「おら、夏男カレー、食う用意するぞ!」
8
二千二十一年十二月五日。見事なまでの朝焼けの中、凍り付きそうな白い息を手袋に吐き掛けながら、姫野あたるは山の麓の森を眺めていた。
野鳥の鳴き声が聞こえる。こんなに厳しい冬景色の中でも、鳥は生きているのかと、ふと心配になった。
雪は降っていなかった。しかし、深夜に降り積もった雪は、玄関の前のアーチを少しだけ隠すように積もっていた。
夕焼けとも違う、朝焼けの朱色の空が煌めいて見える。
雪は溶けるだろうか。帰り道を心配した。
自分自身は、生田絵梨花の卒業を受け止めている。ちゃんと、それが一本の大黒柱のように深層を支えている事が力強く理解できた。
「お前、朝早いんだよ……」
「おお、波平殿。おはようでござる」
磯野波平がぼさぼさの寝ぐせをおったてて、玄関の前に立っていた。彼は登山服を身に纏っていた。
「寒くねえの?」磯野はあくびをした。
「いやあ、寒いぐらいが、目覚ましにはちょうどいいでござるよ」
「俺らがさみいだろうが!」磯野は突然に憤怒した。「ドア閉めて、てめえだけ外に出りゃいいだろ!」
「いや、熊が出たら、とっさに……」
「熊なんか出るか、こんなさみいのに」
風秋夕がタートルネックの上に登山服のジャンパーをかぶって覗きに来た。
「ダーリン、おはよ。波平おは」
「おう」
「おはようでござる、夕殿」
「はぁ~。さみいなー……ドア、閉めろよ」夕は不思議そうに二人に言った。
出入り口のドアに頑丈に施錠をして、三人は雑談交じりにキッチンへと移動した。
風秋夕がコーヒーを淹れ、磯野波平がサンドウィッチを四人前作った。否、夏男はまだ眠っている。
暖房とストーブが部屋の隅々を満たした頃になってから、三人は改めて磯野波平お手製の朝食を取りながら雑談を再開させた。
「なに、ケチャップと食パンって……」夕は嫌そうにそしゃくしながら言った。「何の為にパン焼いたの?」
「焼いた方があったけえだろうが」磯野は夕を一瞥して言う。
作品名:例えば、こんなメロディをポケットに響かせて。 作家名:タンポポ