友情ピアス~白い森と黒い森~
葬儀を終えると、死者をまずこの空間に置く。木棺に寝かせて、蓋はしない。棺の中には死者の生前の好物も入れてある。お酒、果物、それはその人によるが、勿論、生物はすぐに腐ってしまう。どうして腐る物を死者と一緒にいれてしまうのかというと『死者もいずれは腐るから』という理由からそうするらしい。つまり、風葬とは、土葬とも違い、火葬とも違う、死者が完全に骨になるまで待つ、そんな葬法の事をいうのだった。
随分と古い葬法だけど、沖縄に行けば、今も必ずそんな建造物を発見できるらしい。一見土蔵のようなものでも、聞けばそれを『墓』と言われる。それが、風葬墓だった。
語り継がれる沖縄の伝説の中に『チルー』という物語がある。それが、今度私の劇団が開催する旧劇の筋だった。
主人公であるのは、身分を里主とする嘉平川(かびらがわ)という男。里主とは、本土で言う士族の事で、『前結び』を許された一般的な身分の事らしい。前結びとは、つまり刀を持つ人が着物に巻く帯の事だった。でも、この嘉平川が生きていた時代は、もう薩摩藩(さつまはん)に征服され、統治されていたから、前結びとはいっても、刀は差していない。
この嘉平川という男は、物語の中ですぐに妻を娶(めと)る。嘉平川が娶った、つまりは結婚した女性こそが、『チルー』だった。チルーという沖縄系の名前を持ったその女性は、道を歩けば誰もが振り返るほどの美女で、心も優しく、責任感が強い。この嘉平川とは真逆の性格をしていた。そう、主人公である嘉平川は、嫉妬深い陰湿な性格の持ち主だった。
話の筋は簡単なものだった。三角関係に陥った男女に、嘉平川と、情婦と、チルーがいる。その中で犠牲になるのが、チルー。彼女は死に、嫉妬に狂ってしまう。そして、やがてはチルーの死の原因となった嘉平川も、チルーの深い呪いによって、死んでしまうという物語だ。
朝に目が覚めた時には、自分が自分だとは思えなかった。初めて役者なのだと実感できた朝というには、怨念めいている……。
私は眼が覚めるまで、確実にチルーだった。愛しい夫を探すように、毎晩墓を抜け出して、そして……、真っ暗な森の中を歩いている。夫を探すように、両手を伸ばしては泣け叫び、足を止めては、後悔を繰り返す……。
個々の整理もできぬままに、私は『チルー』の役を貰ってしまった。実話とされているこの伝説は、今も物語の舞台となる沖縄県の朱里山川町に、彼女達の屋敷跡が残っているらしい。嘉平川が情婦と歩いた西森(にしもい)という森も、残っているとの話だった。
嘘の話なら、どんなに楽だっただろうと思う。作り話だったならば、私はこうまで卑屈にならずにすんだのかもしれない。
実話と言われれば、しなくてはいけない感情移入が難しくなってくる。チルーになる事で、私は、本当にチルーになってしまう……。
一回目の公演が終わった。三部制になっている劇は、何度かその幕裏で感情を整理させてくれる。チルーである私は、本当の私に戻り、嘉平川であるひろゆきは、元の彼に戻る。その度に笑顔で会話して、私は何とか落ち着いた心のまま、一回目の公演を成功させる事ができた。
第一回目の公演が終了したというだけで、うちの劇団は打ち上げを催した。明日になれば二回目がまた始まるというのに、入った居酒屋では、今も劇団員達の大騒ぎが続いている。
私とひろゆきは居酒屋でも主人公だった。うちの劇団では初の若手主演だったとあって、団長からして明日の公演を既に無視した呑み方になっている。私にとっては初舞台であり、そして初の舞台入りだったので、今回の客入りが大成功というのはその言葉を鵜呑(うの)みにするしかない。総勢でも、百人か、そこそこ。三百人を収容できる観覧性で、そんな客入りが大成功というのは、私にとっては厳しい現実だった。
ひろゆきはもう酔っぱらい始めている。声も上ずっていて、顔色も悪い。新米が大事をやったと団員にそそのかされて、無理な呑み方をした証だった。本来の彼ならば、そこまで乱れる事はまずない。いつでもそこそこ冷静で、そこそこに羽目を外す。つまり、彼も相当に酔っぱらえてしまう心情だったという事だった。
私は、さっきから団員の勧めを断っていた。ある意味では、ちょうど酔いつぶれてしまいたいところだけれど、今お酒を呑めば、確実に酔っぱらってしまう。酔ってしまえば、きっと、この『チルー』の役について、私はひろゆきにとって不快な疑いも持ちだすだろう。私は、ひろゆきを疑っている。
一回目の公演を終了させて、私はそれに気が付いてしまった。違う、それをいうなら、完全に気が付いたというべきだろう。
どこかでは、まだ彼を本気で信じていたのかも知れない。けれど、チルーの嫉妬深さが、私をある意味で正気にさせてしまった。
私は、ヒロユキを疑っている――。こんなにも偶然的な話は、普通では考えられない。劇団に所属していて、そこを辞める。また、新しい劇団に所属する。それは、確実にひろゆきの事だった筈だ。いつからか、私は甘い夢想にしがみ付いていた。全てを破壊してしまう、あの黒い森に浸っていた。
私は、真夏に嫉妬している……。
「おいおいおい、何でウーロン茶なんだってお前は、だ~めだって!」
「あいえ、私は、あの大丈夫なんで、気分が悪いから……」
「麻衣! 呑め~って!」
「ほら、嘉平川がああ言ってるぞ」
「は~っはっはっは!」
「明日舞台でゲロ吐くなよお前ら~」
「ほら、麻衣ちゃんも呑みな」
「ううん……私は、本当にいいや」
ほんの少し前の事を、光のように眩しく感じる……。なのに、どうして今は、今の私は、こんなにも深刻な心労を感じているのだろう……。
私は悪魔になってしまうのか……。それが、何よりも悔しい。
真夏は、今も光の中にいるというのに。私だけが、雨水の滴る、薄暗い不気味な森の中で彷徨っている。
同じ人を好きになった真夏は、今も私に、光のような微笑み方をする。同じ人を好きになった私は、光を思い出して、そんな顔をするだけだ。形が嘘なそれは、到底納得何てできるわけがない。
どうして私だけが、こんなにも卑屈でいなければならないの。
どうして、私はひろゆきを好きになってしまったの。
どうして、真夏はひろゆきと出逢ってしまったの。
どうして、ひろゆきは二人を好きだと言うの。
どうして、私が悪魔になっているの。
同じじゃないか……。悪いのはひろゆきで、私と真夏は、もともと一緒に、全く同じように、笑っていたじゃないか……。
どうして、ひろゆきを憎めないの?
どうしてなの……。
真夏……。
家に帰ってからは、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、すぐに飲み干した。明日の公演に支障のでない程度に呑み、そのまま、ベッドに倒れ込むように眠った。
数日前とは、もう何もかもが違っていた。
私は、何かを選択しなくてはならない。
このままでいられるのが、一番安全なのかも知れない。まだ、完全なる事実はないのだから。それでも、心労が積み重なれば、私はきっと、チルーになってしまう……。
私は選択しなければならなくなった。
白い森か。
黒い森か。
大切な何かを、私は……。
作品名:友情ピアス~白い森と黒い森~ 作家名:タンポポ