友情ピアス~白い森と黒い森~
生計の苦しかった賀平川(かびらがわ)は、その苦しい時期に、ともに人生を歩んでいく妻を娶(めと)った。それはチルーといって、誰もが羨むような美しい容姿も持った女性だった。性格苦の中でも、二人は一時だけ、本当の幸せを噛み締めたのだろう。でも、そんな性格苦は、嘉平川を病に臥せさせてしまう。命を危ぶまれるほどの、死を連想させるそんな病は、嘉平川の陰湿な心を更に陰鬱なものにさせた。
自分が死した後は、そんな美人である、当然のようにまた誰かと再婚するのだろう。嘉平川は床に臥せたまま、毎晩のようにチルーをなじった。『今度は誰の女になるのだね? 私のような男には愛想が尽きただろう。今度は金持ちな体の丈夫な男と夫婦になるつもりなのだろう? それから毎晩裸になって……』毎晩のように誠意を尽くし、嘉平川の世話をするチルーに、嘉平川はそんな陰険な言葉を百ペンも続けた。
チルーが言葉を尽くして自分の誠意を披歴(ひれき)しても尚、嘉平川は納得しない。ついには、チルーがノイローゼになってしまった。それもかなりの重症である。そのチルーを、嘉平川は容赦なくなじり続ける。とうとう、チルーは剃刀(かみそり)で自分の顔を損傷した。一思いに死んでしまえば救われるのだろうが、残された病気の夫の面倒はと思うと、ためらわれる。喉を突くかわりに、鼻を削ぎ落したのだ。二度と、貰い手がないように……。
二人の運命はこれから大逆転展開を遂げる事となる。嫉妬という醜い心の猿を追い出した嘉平川は、日毎快方に向かい、反対に、妻のチルーが卑屈になる。鼻の無い骸骨のような女の口をすする男はいない。当然のように嘉平川は情婦をつくる。『ナビー』という寡婦(やもめ)である。
ナビーと当たり前のように毎晩を共にする嘉平川に悲しみを抱き、チルーはついに首をくくった。
月の美しい夜であった。嘉平川はナビーと共に朱里の西森(にしむい)を散歩していた。おもわず、歌心が湧いた。『月や、昔から変わる事無さみ・・・』良い歌だと思ったのだが、上の句だけである。下の句を考えていると、松ノ木の上から、女の声が後を続けた。『変わていくものや、人の心・・・』
チルーの声だった。この夜を切っ掛けに、妻の亡霊は毎晩のように嘉平川とナビーの房事を覗いた。怒り心頭に発した嘉平川は、ついに墓をあばいて、チルーの両足を釘付けにしてしまった。
その夜、嘉平川はナビーと共に酒を呑もうと、支度を整える。妻の亡霊に房事を覗かれる事無く、これからは二人だけの暮らしが待っている。しかし、酒を盆に載せて部屋に戻ってきたナビーは、それを眼の前に、驚愕(きょうがく)するのであった。
ナビーが指差した、嘉平川の後ろ。嘉平川は驚愕に叫ぶ。妻の亡霊が、鴨井から逆さにぶら下がっているのである。両足の甲から血を流し、口から泡を吹いている。口から怨念めいた怨み言を呟くのだが、その怨み事とは反対に、血の泡を吹きながらも、口元はにたにたと笑っている。嘉平川とナビーは、抱き合って震えた。
間もなく、嘉平川は狂死したと言われる……。
7
思い出のBARになってきた。思い出の席に座り、思い出の注文をする。そして麻衣は物思いに耽(ふけ)った。
全ての心労に決着をつけなけては、もう、何も得る事はできない。いつからか麻衣の心の中で分離してしまった〈白い森〉と〈黒い森〉。どちらにもそれなりの幸福があり、どちらにもそれなりの絶望がある。しかし、もう麻衣には答えが出ていた。
迷う事はない。
カウ・ベルの音に耳を傾け、そしてこちらに向けられた笑顔を発見してから、麻衣は微笑む返す。
何を迷う事もなく、この相席に座った者と、これからの未来を共に歩んでいきたかった。
「こんな時間になに?」
真夏は、驚いたような顔で言った。
「もしかして……悩み相談、とか?」
「ううん」麻衣は首を振る。清々しいその表情には、一点の曇りも見られない。「呼んだだけ」
「なにー、それ」
現れたボーイに、弱めのカクテルを注文し、真夏は落ち着いた笑みを浮かべた。
麻衣もまた、似たような笑みを浮かべる。
そんな時間は短くも最高であった。誰も知らず苦しみから、真実の意味で解放された。そんな瞬間なのである。チルーの恨みは、まだ少し残るかもしれないが、それも何れ、跡形もなく消えていくだろう。
今は、この最高の時間を、少しでも強く実感していたかった。
真夏をさんざん呑ませた後は、車で真夏を自宅まで送り、また車を走らせる。
向かう先は決まっていた。
カーステレオは付けずに、麻衣は前方の景色だけを見つめる。
窓を閉めているせいか、無音状態が、やけに通り過ぎる排気音を強調させる。
暗い夜道に車のライトを光らせながら、幾つもの微笑みを、麻衣は思い出していた。
確認しては、数えていくように、また思い出す。思わず、頬が微笑んでしまう。
それは偽りではなく、本当に、楽しいと言える時間であった。出来る事ならば、今からの行動を止めてしまいたい。しかしそれはもう出来ない。そうするよりも、自分は、もっと大切なものを選んだのだから。
移り変わっては、また鮮明に現れる愛しい思い出。それは変わっていくウィンドウの景色のように、その整ったフォルムを失ってはいない。その愛しさを忘れぬよう、そして忘れるように、また、数えるように、麻衣は微笑む。
素直な涙を受け入れながら、麻衣は鼻をすすった。
帰りの途中、麻衣は車内で泣いていた。それは僅かな微笑みもなく、みじめに、子供の様に、大きく声を上げたものだった。
8
全ての公演を終えてから、やっと劇団を辞める事ができた。これでもう、私はヒロユキと顔を合わせる事がない。心配してくれた真夏には、団員とひと悶着(もんちゃく)あったと、一応嘘ではない事を言った。
一か月間のそれはきつかったけど、今は充実した時間というのか、随分とマシにはなった。真夏と沙友里とたまに行く食事は、出逢った頃のように楽しい。話も弾む。恋人関係の話にさえならなければ、これといったハードルは何もなかった。それに、この事は沙友里にも『解決した』と、一応そう言ってある。彼氏と別れた事だけなら、真夏にも言ってあるし。もう、何も問題はなかった。
とうとう毎回の行事になってしまった真夏家での『お茶会』に、沙友里もしょっちゅう加わるようになって、今は本当に満足している。なかなか埋まってくれない心の隙間は、笑うセールスマンじゃなくて、この二人といれば埋まるんだから。
私は、この時間を大切にしていくだけだ。
ようは、普通に。
これからも。これまでも。
普通に。
「この前さ、真夏、お味噌汁つくれるって言ってたやんなあ?」沙友理は読んでいた漫画本を置き、ベッドから突然に真夏を振り返った。「ダシとかさ、ちゃんととるわけ?」
「はあ?」真夏は驚いた顔をする。「お味噌汁?」
私も、驚いた顔で沙友理を見た。
「ゆってないけど」真夏は、少しだけためらって言った。ゆっくりしゃべると、綺麗な日本語になる。「いつ? ええ、言ったっけえ? いつ行ったあ?」
私はたまに訛(なま)る。
作品名:友情ピアス~白い森と黒い森~ 作家名:タンポポ