彼方から 第四部 第一話 ― 祭の日・1 ―
だが、思考回路が追い付かない。
まだ年若い、見場の良い青年。
自分の眼が、おかしくなっていないのであれば……
この青年は今、紛う事なき『頭上』から、『飛び降りて』来たのだ。
「お……」
あまりの出来事に、言葉が出てこない。
俄かには信じ難い光景を目の当たりにし、青年から眼が、離せない……
「イザーク!」
まるでこれが当たり前かのように発せられた、安堵と喜びに満ちた娘の声音が、何故か耳に残る。
青年が『どこから』飛び降りて来たのか……考えると恐ろしい。
周囲の建物は皆、見上げるほどに高く、とても『普通の人間』が平気で飛び降りられる高さではない。
いや、その前に――――
『普通の人間』が、そう容易く登れるわけがないのだ。
「――っ!!!」
不意に、胸座を掴まれた。
「ひっ!!」
抵抗する間もなく、そのまま背中から、地面へと叩き付けられていた。
「誰だおまえはっ!」
青年の怒声に、身体がビクつく。
「なぜ、ノリコを連れて行こうとするっ!!」
鋭い視線に見据えられ、無意識に体が震えだす。
いや……体が震えだしたのは何も、鋭い視線だけが原因ではない。
『大の男』を軽々と片手で放り投げた――その『事実』も、男の体を震わせていた。
「お……おれはただの口入れ屋で……しょ……職、捜しているんじゃないかと思って……」
恐る恐る、ゆっくりと身を起こし、青年に問われた応えを震える声音で口にする。
その応えを耳したノリコはすかさず、イザークに身を寄せ腕を取り、
「違うって言ってるのに、全然、聞いてくれなくてね、それにね、止めようとしてくれたこの人、殴ったのよ! 女の人なのに!」
顔を真っ赤にして、涙目になりながら……
殴られた頬に手を当て、呆気に取られたように未だ地面に座り込んでいる女性を指差し、必死に訴えていた。
「わ……悪かったよ! おれの勘違いだったよ!」
ノリコの訴えに焦り、男は慌てて自分の行動を訂正してくる。
男の、その場しのぎの謝りに、イザークが思わずきつく睨みつけると、
「わわっ!」
男は慌てて立ち上がり、脱兎の如く逃げ出していた。
――まったく……
――油断も隙も……とは、このことか……
ほんの少しの間、離れただけなのに……
疲れ気味のノリコの為に、何か元気の出るものをと――そう思っただけだったのに……
人込みに紛れてゆく男の背中を、視界から消えるまで見やり、イザークは一つ、溜め息を吐いていた。
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思わず、何度も見返していた。
頭上から、稲妻の如く降って来た『影』を……
見上げるほどに高い建物の屋根から飛び降り、平然と立つ、黒髪の青年の姿を――
――さっきの……
――あたしの亭主と背格好がほとんど同じの……!
確かに、人で溢れる町中へと、駆けてゆく背中を見た。
もしも彼に、彼女の抵抗する声が聞こえていたのだとしたら、もっと早くに戻って来ていたはず。
それにあの男は、青年が向かった方とは違う方へと、彼女を連れて行こうとしていた……
あの娘も、大きな声で悲鳴を上げたりはしていなかった。
なのにどうやって、彼女の『危機』を知ったのか分からない……
分からないが、そうザラにはいないはずの、青年の見事な『アクロバット能力』に、眼を奪われる。
彼女に『イザーク』と、呼ばれていた青年に――
「わわっ!」
彼にきつく見据えられた男が、慌てふためいて逃げてゆく。
「あのっ!!!」
事なきを得て寄り添う二人に、女性は思わず声を掛けていた。
「あたっ――!」
大声を出したせいで、頬に痛みが走る。
イザークのアクロバット能力に気を取られ、殴られたことなどすっかり念頭から外れていた。
「あっ!」
彼に、『ノリコ』と呼ばれていた少女が、駆け寄って来てくれる。
「大丈夫ですか!?」
身を案じて、手を差し伸べてくれる……
「あ……」
殴られた頬が、ズキズキと痛む。
だが『今』は、そんなことに構ってはいられない。
「あなた達、うちに泊まりなさい」
「え?」
覗き込むように身をかがめてくれるノリコに、女性はそう、声を掛けていた。
「泊まるとこないんでしょ?」
突然の申し出に戸惑い、大きな瞳を更に大きく見開いているノリコ。
「ねっ」
女性は彼女の瞳を強く見詰め、もう一度……
「ねっ!」
ノリコと同じように、戸惑い、立ち尽くしている黒髪の青年に向けて、もう一度……
「ねっ!!」
どう応えて良いか困惑している二人に、付け込むようで悪いなと思いつつも、ダメ押しでもう一度……
女性はこの機を逃すまいと、有無を言わさぬ強い口調で自分の提案を押し切り、半ば無理矢理に――
二人の首を縦に、振らせていた。
*************
ザーゴの国……
グゼナとの国境近くにある、『白霧の森』――その、奥深く……
左大公方一行を、ドニヤ国、エンナマルナまで護衛するという役割を終え、一頭の馬と共に、黒いチモをその肩に乗せたエイジュが……
夜風に揺れる、薄紫色の美しい葉を茂らせる一本の大樹の前に、突として姿を現していた。
柔らかな夜の闇の中。
月光を纏う朝湯気の樹が、仄かに青く、煌めきを放っている。
囁くように揺れる薄紫の葉を――
白霧の森、その奥地にしか生えぬと言われている朝湯気の樹を見上げながら、エイジュはゆっくりと馬から降りていた。
***
微かに揺らぐ森の気配に気付き、イルクはゆるりと、意識を起こした。
今は、魂だけの存在として森に留まる、森の住人たち。
その住人たちが、訪問客がいることを、教えてくれる。
……覚えのある気配。
イルクはその気配の主が、何故、今、この地を訪れたのか訝しみながら、朝湯気の樹から姿を現していた。
……久しぶりだね
男物の上着を肩から羽織り、馬の傍らに立つエイジュに、言葉を掛ける。
頭の中に直接響く声音に、エイジュはゆっくりと視線を樹上へ向けると、
「……イルク――起きて、いたのね……」
体を包む柔らかな光と共に、笑みを見せてくれる『朝湯気の樹の精霊』イルクツーレに、少し翳りのある笑みを返していた。
森の気配が 少し 揺らいだからね
それに……
そう言いながら南の方へと、視線を向けるイルク。
とてつもなく禍々しい 強い波動を感じたんだ
同時に 多くの邪気が集まる気配も……
君たち人間の感覚で言うなら 『二月』くらい
前のことだよ
だからかな……
眠っていても 気配の揺らぎには敏感になっているんだ
ぼくも 森のみんなも
気付けば、イルクの周りには、あの時、魔物の支配から解放された森の住人たちが、イルクと同じく優しい笑みを湛えながら、浮かんでいる。
「そう……」
魔物に利用されていたとは言え、自分たちのしてきた行為を悔い、『償い』の為に『こちらの世界』に留まっている魂たち。
その魂から放たれている波動は優しく、温かく……
作品名:彼方から 第四部 第一話 ― 祭の日・1 ― 作家名:自分らしく