BUDDY 12
士郎はやはり、消えたいと思っているのだろうか。
やがて琥珀色の瞳が滲んで、頬に触れた私の手に雫が伝った。
「ほ……ん、っと、に……? ほん、き……なの、か?」
「ああ。本気だ」
「っ……、ぅ、なんで……? アンタは……エミヤシロウなのに……」
「ああ、お前もな」
「ありえ……ない…………だろ……?」
子供のように涙を落とし、それでも必死に堪えようとする士郎は、あまりにもいじらしくて、抱き締めたくなった。
「……そんな“常識”など、クソくらえだ」
ぱちぱち、と二度三度と瞬いた士郎は、ぷ、と吹き出す。
「なんだ、それ」
泣きながら笑う士郎を可愛いと思った。
(なぜ……?)
内心、首を捻っていた。
◇◇◇
アーチャーが一緒に過ごしたいなんて言ってくれた。
絶対に聞くことのできないような言葉だったのに……。
ベッドから落ちたアーチャーは、自力でベッドに戻ったから、俺も椅子に戻ろうとしたら手首を掴まれた。
「ここに、」
ここにいろ、と言われて、ベッドの縁に腰を下ろす。
「私が眠るまで……、いや、眠ってからも、ここにいろ」
鈍色の瞳は、真っ直ぐに俺を見据えて、全部を見透かされている気がする。
少しソワソワするけれど、アーチャーの要望を無下にする選択なんて俺にはない。
横向きで俺をずっと見ていたアーチャーは、そのうちに寝息を立てはじめた。呼んでも揺すっても反応しなくなったから、手首を掴んだままだったアーチャーの手をそっと外して掛け布団の中にしまい込む。
床に腰を下ろして上半身をベッドに預け、アーチャーの寝顔を眺めた。
初めからやり直すって、何を、どうすればいいんだろう?
アーチャーの言う“やり直す”って内容がはっきりしない限り、どう動けばいいかわからない。
とにかく、アーチャーが本調子に戻らなければ、どうすることもできないから、今は待つしかない。
そっとアーチャーの額に手を当てた。さっき顔を床に打ちつけていたみたいに見えたけど、大丈夫なんだろうか。触ってみたけど、タンコブはない。
乱れて下りた白い髪を撫でて、いつもより幼い顔立ちになったアーチャーを見ていると、少し笑いがこみ上げた。
なんだって、ベッドから落ちてるんだ。
サーヴァントだろ、アンタ。
眉間を指でつついてみる。いつもここには深いシワが刻まれているのに、今はすっかりなくなっている。
「アーチャー、俺、アンタのこと、好きでいいのか?」
やめろ、とは言わなかった。
それどころか、もう一度、俺との関係をやり直したい、とアーチャーは言った。
だったらこの気持ちは消さなくてもいいんだろうか。
やっぱり気色が悪いからやめろって、後になって言うんだろうか。
「なあ、アーチャー……」
ずっと答えなんて期待していなかった。
ずっと殺してきた想いだった。
今になって、どうしてって思う。
アーチャーはいったいどうしてしまったんだって、思わなくもないんだ。
「こわいんだよ、俺……」
やっぱりやめろって言われないかな。
やっぱり消してやるって言うんじゃないかな。
「俺は、どうすればいい……?」
眠ったアーチャーに訊いても仕方がないのに、アーチャーの答えを聞くのがこわいから、こんな無駄なことしかできなかった。
***
「ようやく戻ったわね」
「おかげさまで」
凛は腕を組み、つん、と鼻先を上げて忌々しげに言う。対するアーチャーもふてぶてしさに拍車をかけて答える。
「遠坂、早く食べないと遅れるぞ?」
「ええ、ありがと、士郎」
にっこりと笑って士郎に答える凛は、士郎が持ってきたフルーツの皿を引き寄せる。
「包んでおいたぞ」
その脇で、アーチャーが凛の弁当をテーブルに置いた。
「ありがとう、アーチャー」
アーチャーに答えた凛の声と視線には、明らかな不機嫌さが伴われている。
目が合うと、バチ、と火花が散るような錯覚さえ見え、士郎は指先で頬を掻きつつ、見ていることしかできないでいた。
「あのさ、遠坂」
玄関まで見送りにきた士郎は、凛を呼び止める。
「アーチャーのこと、許してやってくれよな?」
「…………」
「あの、遠坂?」
気遣わしげに呼べば、凛は大きく一つ息を吐いた。
「……べつに、許さないってことじゃないのよ、私は。ただ腹が立っているだけ」
「うん……、でも、罰は受けたしさ」
ガンドを喰らって寝込み、いまだにアーチャーは本調子ではない。
「そうね……。でも、すぐには無理よ。私、そこまで大人じゃないもの」
ローファーを履き、凛は士郎を振り向く。
「士郎、あんまりアーチャーを甘やかしちゃダメよ?」
「甘やかしてなんか……」
「はあ。自覚がないのが、問題ね」
「えーっと……」
曖昧な微笑を浮かべた士郎に呆れた顔を見せ、中空に視線を上げた凛は、遅れるからと言って玄関を出る。
「いってらっしゃい、遠坂」
「いってきまーす。今日は衛宮くんの家に行くから、夕飯はいらないわよー」
門を出ていく凛は見送る士郎にそう言って、軽い足取りで登校していった。
凛を玄関で見送った士郎は、そのまま庭に回って水やりをはじめる。四月だというのに、晴れた日の日中はすでに初夏の気温と変わらず、少し水やりを怠ると庭の花々は萎れてしまう。
黙々と水やりをしていると、洗濯物をテラスで干すアーチャーがこちらを見ていることに気づいた。
(また、見てる……)
何か不備があるのだろうか、と士郎は首を捻るが、見たところ何も問題はないはずだ。それに、アーチャーには何を言われることもない。
あれから、何が変わることもなく、動けるようになったアーチャーとも、元どおり家事を分担して日々を過ごしている。
士郎が長年抱えていた想いをぶちまけたことについて、アーチャーは特に何を言うこともなかった。その上、なんらお咎めも受けなかったので、士郎の心持ちはずいぶんと楽になっている。
アーチャーから何かしらの返答や申し出があったわけではない。ただ、一からやり直したいと言われ、ともに過ごしたいと言われただけで、士郎の想いに答えるとか、受け入れるとか、そういう話に発展したわけでもない。
宙ぶらりん、というのが正解だろうか。
だが、今まで独りで抱えていた想いをアーチャーに知ってもらっているという事実があるだけで、気持ちが楽になったのだ。
士郎は、はじめから見返りを求めてなどいなかったため、アーチャーにはなんの期待も寄せてはいない。そういう諦観と、ある程度の覚悟を決めていたから、気持ちが楽になっているのだろう。
何も進展していないが、最悪の事態に陥らなかっただけでも僥倖だと士郎は思っている。即刻消されるだろうと考えていたことからすれば、十二分に恵まれている、と。
そんなふうに、ややおかしな方へ前向きな気持ちになっている士郎は、最近、不可思議な視線を感じているのだ。
言わずと知れたアーチャーの視線。それを感じることが多々ある。