天空天河 一
一 藺晨
「飛流────。」
藺晨が飛流を呼ぶ。
藺晨の声が、空に響いた。
天にも届くかと思う程の、岩の列柱の、殊更高く、天辺にも届くかという石柱に、岩屋が有り。
この石柱は、誰も登った事の無い、未踏の石柱と言われていたが、一人の男と童子が住まっていた。
岩屋に住まう藺晨が、童子の名を飛流と呼んだ。
見目は若々しい青年で、藺晨を仙人と言うには、世俗の垢が抜けきっていない。
藺晨は、この秘境の中の岩屋で、飛流と暮らしていた。
藺晨が呼ぶと、程なく、十歳程の童が、岩屋の中に飛び込んできた。
「飛流。石柱を登る猿はどうなった?。」
「、、、、落ちた。」
「あははは、、、お前が落としたんじゃ無いだろうな。」
飛流は、つーんと向こうを向いて、また外に出て行った。
ここ数日、無謀にも、この列柱を登る人影があった。
そういった輩が、これ迄、全く居ない訳では無かったが、更に一際高く、垂直に聳えるこの石の柱を、登る者は、見た事が無い。
列柱を登る物はいるが、この高い石柱の袂(たもと)で、皆、無理だと諦めるのだ。
この度、石柱を登る者を、藺晨は初め、猿か何かの獣だろうと、思っていたが、よく見れば、頭を隠す頭巾の付いた衣を着ている。
『人がここへ来る』
藺晨が人に会うのは、百年、いや、百数十年以上にはなるだろうか。
藺晨は故有って、人の世を離れたが、寂しく無いと言えば嘘だった。
少し、、どころでは無く、登って来る者のことを、藺晨は相当、喜ばしく待っていた。
だが、武功の優れた者でも、ここに登れた事は無く、望みは薄い。やはり、此度も無理だろうとも思っていた。
「、、残念だが、、、無理か。
この石柱を登れる者なぞ、この世に居はしないのだ。」
それから数日。晴れ渡る朝。
もう一度、登ってくる人影を見たが、昼頃に見たら、人影は無くなっていた。
「あの者は、死んでしまったかも知れぬな。」
残念に思った。
そして夜は、嵐になった。
嵐が来たことで、微かな藺晨の希望も、潰え、石柱を登る者の事は、頭から消し去った。
心に留めて置くだけ、失望感が大きくなるからだ。
石柱の下の樹々が、騒めいている。
一陣の風が、藺晨の岩屋に吹き込んだ。
「ぅわっっ、、、ぷ、、。」
藺晨は強風に翻弄される。
「飛流!、静かに入れと、あれ程言ってるだろう!」
衣に付いた、埃や木の葉を払いならが、飛流を叱りつける。
見れば、入口に飛流が突っ立って、その足元には、何が蹲(うずくま)っていた。
「飛流、何だそれは?、、、、白い猿?。」
燭台に火を灯して、蹲った者を照らし出した。
非常に高い場所にある岩屋だが、扉が無いにも関わらず、どういう仕掛けか、ほとんど風が吹き込む事は無い。
飛流が、いきなり入る時を除いては。
服を着た、白い毛むくじゃらの獣が、伏していた。気を失っている。衣は汚れ、背中や白い毛には、血が付いて乾いた跡があった。
「石柱を登っていたあの者か?。」
「、ん、、。」
飛流は頷く。
「どれどれ?、、酷い姿だが、、。」
藺晨は、白い獣の手を取り、脈を診た。
飛流は、興味津々で、藺晨と獣を交互に見ている。
「む、、、。」
脈を診て、藺晨の眉間は険しくなった。
《脈は乱れ、安定しない。何か強い発作を起こした後の様だ。
獣かと思ったが、驚いた事に、この経絡は人の物だ。
この者は人なのか?。何故、この様な姿に、、。》
「目を覚まさせよう。」
そう言うと藺晨は、この者を座った状態にして、背中を飛流に支えさせた。そして、背中や首の数箇所の経絡に、鍼を打った。
「、、、ぅ、ぅ、、、。」
低い呻き声の後、この者は目を覚ました。
白い毛を纏ったこの者は、体を酷く打ち付けたのだろう。痛がり、声も上げずに体を強ばらせている。
藺晨が怪我の程度を診ようと、この者の体に触れると、酷く痛がり、また呻き声を上げた。
余りに痛がるので、触れる事も躊躇する。
「この高さから落ちたなら、普通の人間ならば、生きてはいられぬはず、相当な武功がある筈だが。
ここに辿り着いた者は、百年以上、一人もおらぬのだ。大概は一度落ちれば、大怪我をして諦める。
お前は、幾度も幾度も、、何故ここまでして、、。
、、、、ぁぁ、、、この岩屋の『至宝』の伝説か。」
白い者は、痛みが強くて、聞こえぬのか、黙って歯を食いしばっていた。
「お前は、何者なのだ?、何処から来た?。」
白い者の口が動くが、言葉にはならない。
「、、、、お前、口が利けぬのか?!。」
だが、よく見れば、生まれながら話せぬ者では無い様で、その唇は確かに言葉を話していた。
「、、、、、。」
「、、何?、、梅、、嶺??、、、梅嶺だと?。」
藺晨は、この者の口の動きを洞察して、『梅嶺』の言葉を探り出した。
白い者は小さく頷いた。
「数年前に、大渝と、大渝と結託した赤焔軍が、大梁の謝玉と夏江の軍に、梅嶺で滅ぼされたと、、。
酷い出来事だった様だな。
大渝や謝玉と夏江の兵なら、ここには来るまい。
ならばお前は、、、赤焔軍の生き残りか?。
都では祁王が、皇帝の弑逆を企てていたと。
だが、全ては謀られた事なのだろう?。
大梁は嫡男子も居らぬのに、順風満帆の長子が、父親の暗殺なぞするものか。考えなくても分かる事だ。全く気の毒な話だ、、。」
藺晨の言葉を聞いて、白い者は眼に涙を溜めていたが、耐えきれず下を向いてしまうと、三滴四滴と床を濡らした。
藺晨はこの岩屋から、一歩も出られぬのだが、飛流が、時折拾ってくる、世俗の人々の、『時報』の様な散報(日本で言うかわら版)を見て、知っていた。梅嶺での事は、民間でも大変な話題だった様で、飛流は梅嶺の戦の散伝を、何枚も拾ってきたのだ。
「お前は、梅嶺での戦に居たのだな。梅嶺では天を焼き尽くす炎の戦いだったと、、。
悪い事に、梅嶺には雪蚧虫が生息しており、奴らに火傷の患部を蝕まれると、蝕まれた者は体内で、火寒の毒が生成され、その毒により、お前の様な姿になると、、。」
この岩屋の奥には、古代の書簡が山ほどある。
百年以上も閉じ込められ、藺晨は全て読み尽くしてしまった。
『白い毛の人間』と『梅嶺の雪蚧虫』の二つが、藺晨の中で結びつき、書簡の中の『火寒之毒』の記載を思い出した。
『至宝』の力は、人の持ち物と引き換えに、望みを叶える、、と。
「ここに来たのは、姿を戻してもらう為なのだな?。」
白い者は頷く。
「ここの『至宝』の話を、何処かで聞いてきたのか?。人々には、忘れ去られた話だろうに、、何処からお前の耳に、聞こえたものか、、。」
白い者は涙を払い、藺晨を見る。真っ直ぐな目で、視線を外そうともしない。どれ程願っていたのか、どれ程切望しているのか、、。
藺晨は次の言葉を躊躇するが、言わねばならぬ事だった。
「ここまで折角、辿り着いたというのに、こんな事を言うのは、申し訳無いが、、、。
『至宝』はとうに開けられ、お前の力になる事は出来ぬのだ。」
「、、ぅ、、、ぅッ、、、。」