天空天河 一
四 金陵
懐かしき、遥かに望む、金陵の門。
──梅嶺に向かう為、あの門を出てから、早、十年。
金陵の人々に送られ、私は、梅嶺に向かったのだ。
十年の間に、全てが、これ程変わろうとは、、。──
梁の王都、金陵への街道。
城門が小さく見える小高い丘に、東屋が建っている。
旅立つ友を送る、別れの場所。
友の一路平安を願い、再会を約束する。
石柱で人の姿に戻ってから、更に五年が過ぎた。
懐かしきこの東屋に、梅長蘇は一人佇んでいた。
馬車にて金陵を目指していたが、乗っていた馬車が、泥濘(ぬかる)んだ轍に嵌り、出られずに難儀していたのだ。
御者が一人、格闘していたが、とても出られそうに無かった。(飛流に怪力は無し)
馬車の様子を見て、長蘇に駆け寄る飛流。
「飛流、、車輪は轍から抜けたか?。」
長蘇の問に、飛流は首を振る。
「、、雨で泥濘んでいたからな。にしても、何故わざわざ、水溜まりに突っ込むのだ。
これは御者一人だけでは、手に負えぬ、、。誰かが通り掛かるのを待ち、助けてもらおう。」
「ん。」
飛流は長蘇の脇に立ち、長蘇を支えた。
程なくして、遠くから蹄の音が響き始める。
「十数人はいようか。その人数なら、助けてもらえる。
、、、、ん??、軍馬、、か?。」
蹄の音のする方に、目を凝らした。
聞き覚えのある、蹄の音、、、。
血が逆流する程、驚いた。
──、、、景琰、なの、か、、。──
鼓動が、側に居る飛流の耳まで、聞こえてしまいそうで、長蘇は些か狼狽える。
遠目に見え始めた、小さな姿でも、一目で靖王を捉えてしまう。
長蘇には、その姿は眩しい程に輝いて見えた。
──景琰、、。──
雄々しい姿は、互いの行先に向かった、あの日と変わりがない。
林殊だった長蘇は梅嶺の戦場へ、靖王たる蕭景琰は東海の地へ。
──、、、あいつは、困っている私達を、放っては行かぬ。
、、、どうしたら、、林殊とは分からぬだろうが、一体どんな顔をして、景琰と会えばいいのだ。
なんて間の悪い。
まさか、ここで会うなんて、、困る。──
隠れる場所を探したが、何処にもありはしない。
──いっそ、馬車に隠れて黙(だんま)りを決め込むか、、。
ならば、もたもた出来ぬ。今の私は素早くなぞ動けぬのだ。
、、あぁ、、駄目だ、、もう遅い。
景琰は程なくここに来るだろう。
どうか、、何事も無く、通り過ぎて、、、。
私にはまだ覚悟が、、、。
お前に会う、心の傷の準備をしていない。
お前と会う機会は、ちゃんと、算段をしていたのに、、。
一言目の言葉も決めていた、、、、
、、、、、のに、、。──
長蘇は、心、焦るばかりだった。
──、、、梅長蘇としての仮面を被るのだ。──
列戦英が先頭を走り、間を空け、その後ろを靖王が行く。
毅然と真っ直ぐ馬に乗り、馬を御し、少しの乱れも無い。あの頃と変わらぬ、模範の様な乗馬の姿。
惚れ惚れとする勇姿だった。
長蘇の頬が上気する。
先頭の戦英が、長蘇の馬車の所で止まり、御者に話を聞いている。そして止まった部隊の元に戻り、靖王に説明をする。
程なく、わらわらと部隊の一部と、軍馬が馬車の側に来て、綱を掛け、軍馬が馬車を引き始めたのだ。
忽ち馬車は、泥濘(ぬかるみ)から引き上げられた。
そして、馬を下りた靖王が、こちらに向かって、上がって来るのが見えた。
──、、、景琰、、、。──
仮面を被ると決めたのに、決意は今一つで、林殊が零れ落ちそうなのがわかる。
「忝(かたじけ)ませぬ。難儀を救って頂き、ありがとうございます。」
そう言って、長蘇は靖王に拱手した。
「何の。困った時はお互い様だ。」
拱手を返す靖王。
──色白だった肌が、日に焼けて、逞しくなった。
、、、何処か人を許さぬ、鋭い眼光は、以前よりもずっと鋭くなって、、。
、、、、堅物感が増したな。──
すっかり大人の漢になった。
長蘇は靖王を間近に見て、そう思った。
──だろうな、、、。
辺境で人一倍、苦労をしたのだ。
尊い身分で、これ程苦労した皇子も、他に居ないだろう。──
馬車の引き上げ、壊れた箇所が無いか、点検しているのを見ながら、靖王が尋ねた。
「これから金陵に?。」
「はい。体が弱いもので、、。故郷の医師には見捨てられました故、金陵の名医を頼ろうかと。」
「左様か、体が。それは大変だな。金陵で行く当てはあるのか?。見た所書生の様だが。」
靖王は、爽やかに微笑む。
──何も変わらぬ、、、十年が経とうと、景琰は昔と変わらず、、、。あの頃のまま、、。──
長蘇は、靖王の微笑みを眩しく思う。
──無愛想、所以、誤解されるが、本来、心根の優しく、情義の深い漢なのだ。
景琰の生きる世界が、江湖ならば、一目も二目も置かれよう。
損な宿星の元に、生まれたのだ。
なのに意地けもせずに、真っ直ぐに歩んでいる、。──
「はい、伝(つて)は有ります故。」
そう言って、長蘇は靖王の眩しい笑みを、一瞬、正視出来ずに逸らした。
廊州に居て、方々手を尽くし、表立って言えぬ様な事も行った。
若き頃、『堂々と有れ』と、二人誓い合った志に、背く事も、、。
光を射(はな)つ明るい道を歩く靖王に、酷く引け目を感じてしまったのだ。
「そうか、何か困った事が有れば、訪ねよ。差程、助けにはなれぬかも知れぬが。
私の名は、、」
靖王が名乗るのを制して、長蘇が言う。
「靖王殿下でございましょう。
私の様な、虚弱な書生如きを、気に掛けて頂けるとは、恐れ多い。」
「私を知って?、、。」
急に靖王は、長蘇を訝った。
他の王族と違い、金陵を留守がちな靖王なのだ。
更には、地方の官吏等と繋がっているのは、皇太子や誉王だった。官吏と繋がりのある書生ならば、皇太子や誉王を知っている者は、居るかもしれぬが、。
地方の武官ならばまだしも、廊州の片田舎の、軍務に疎い書生が、靖王を知っている筈が無い。
──さすがは景琰だ。いい所に気が付いたな。──
昔と変わらぬ頭の巡りの速さに、長蘇は嬉しくなった。
靖王の疑問の答えも、長蘇は用意している。
「二年程前になりましょうか、殿下は軍務で廊州をお通りに。その折に殿下を拝見したのです。」
「私を知っているとは、驚きだな。
確かに、都の民よりも、辺境の民の方が、私を知っているかも知れぬな。
だが廊州は、江湖の者に上手く管理されている故、至って平和だ。ただ素通りしただけだが?。地の者に挨拶もされず、騒ぎも何も無く、穏便に通り抜けた。なのに貴公は良く覚えていたものだ。」
「私は病弱で、外出も出来ぬ故、外の事は何でも知りたいのですよ。
殿下が軍功著しく、辺境の平定に尽力されている事は、良く存じています。」
「ふ、、良く言ってしまえば、そうも言えるか?。
平定、、か、、ふふふ、、。」
靖王は少し俯き、自嘲気味に笑った。
長蘇は、その自嘲の意味が分かるだけに、胸が痛む。
──景琰の任務は、朝廷の尻拭いとも言える軍令ばかりだ。
軍令に沿わなければ、陛下に反逆と見なされる。