ポケットいっぱいの可愛い。
「上昇気流逃さないで、絶対キユウ前向いて!」夕は突然に歌い出した。「もうちょっとでさ、フアキユウ前向いて! じゃねえ? 絶対キユウ、のところ……」
「お願いマイハートな」磯野は横眼で言った。みなみに微笑む。「そんな腐った歌詞じゃあねえもーんなぁ~?」
「誰が腐った歌詞だっ!」
「みなみちゃんがさ、乃木坂工事中のロケ中に、ハンモックに飛び乗る挑戦をして、くるっとひっくり返ったんだけど」稲見はみなみを見る。「ああいう事をして怪我をしないのが、赤ちゃんみたいだ」
「赤ちゃん?」みなみは己を指差して苦笑した。
「あー乃木どこの時もあったよね?」夕はみなみを見て、稲見を一瞥して言う。「なんか縄の上に乗って、ぐるん、てひっくり返ったの……」
「そう。怪我しそうで、怪我しないイメージがある」稲見は頷いた。ミナミを呑む。
「なんか、みなみちゃん、つったら、茶髪が一っ番似合うイメージあっけどなあ……」磯野はみなみを見つめて真顔で言った。
「みなみちゃんはシャープな悲鳴上げるイメージある」夕は無邪気に笑った。
星野みなみははにかみながら、グラスを持ち上げて、光に当て、横から覗く。液体は残り少なくなっていた。
「おかわり頼も?」夕は微笑む。
「うん」みなみはメニュー表を広げる……。「美少年、てなに……」
「日本酒」夕はにこやかに答えた。「美味しいよ。呑みやすいし」
「じゃあ、それ呑んでみるね」みなみはメニュー表を見ながら言う。「呑めなかったら、また別のやつにする……」
「OK」夕は微笑む。「お前らは?」
「シンウチマイを」稲見は親指を立てて夕に言った。
「エリカだな」磯野は頭をかきながら夕に言った。
風秋夕は、電脳執事のイーサンに、五人前の注文をした。
フロアに流れる楽曲は乃木坂46の『裸足でサマー』になっていた。
「卒業後はプロゴルファーにはなるの?」稲見は無表情でみなみに言った。声に抑揚もなく、表情もないが、これが稲見瓶の標準装備である。
「え?」みなみは驚いてきき返す。「プロゴルファー?」
「お父さんの夢じゃなかったかな?」稲見はみなみに言った。
「お父さんがやってるだけで、もう……適当だから、お父さん」みなみは苦笑した。
「声が一番可愛いって、お父さん初期の頃に番組で言ってたよね」夕は微笑みながら言った。みなみは笑って頷いている。「いやマジで声可愛すぎるし……。自分の娘でもそういうのちゃんとわかるんもんなんだな」
「みなみちゃんに問題です」稲見は、突然にみなみに問題を出題する。「西暦千五百年頃に活躍した、画家の名前が由来とされる、イタリアの料理は何?」
「え……」みなみは咄嗟に考える。「もう一回言って」
「西暦千五百年頃に活躍した、画家の名前がゆらいとされる、イタリアの料理は何?」
「……え、……」みなみは答える。「カプレーゼ……」
男子達三人は、その答えを待っていたかのように爆笑した。
「え何?」みなみはきょろきょろする。
「これね、前に乃木坂工事中で実際に出た問題なんだ」稲見はみなみに説明する。「そこでね、回答席に立ったみなみちゃんは、何度も何度も、カプレーゼと、同じ答えをこたえたんだよ。憶えてない?」
「わかんない」みなみは笑みを浮かべた。
「答えは何だっけか?」磯野は稲見に言った。
「カルパッチョだね」稲見は答えた。「イタリアの画家、ヴィットーレ・カルパッチョから取られてる」
「偉大な名前にあやかって祈願してるんだろうな」夕は呟いた。
「ヒット祈願と言ったら、みなみちゃんだよな?」磯野は嬉しそうにみなみを一瞥した。それから、ふいに眼を奪われて、真顔になり、じっと見つめたままで顔をしかめた。
「ん?」みなみは磯野に疑問の表情を浮かべる。「どした?」
「いや……、可愛い顔してんなーっと思ってよ」
「馬鹿ですか今さら」夕ははきはきとしゃべり出す。「富士山とか、地味にきつかったでしょ?」
「あー」みなみは思い出す。「枠は、三十分だからね……でも実は、んもう何時間も登ったりおりたりしてるから……」
注文しておいた品が電脳執事のイーサンの知らせと共に、〈レストラン・エレベーター〉に届いた。稲見瓶は空いたグラスを送り返した。風秋夕は届いた品を皆に分配した。
地下二階のエントランス・メインフロアに、3LWの『モア―・ザン・フレンズ(ザッツ・ライト)』が流れる。
「富士山なんか、あれ何時間ぐれえ時間かかるん?」磯野は顔をしかめてみなみにきいた。
「十一時間、ぐらい、かかった」みなみは答える。美少年を一口吞む。「ん……、あ、日本酒……」
「変える?」夕は心配そうにみなみにきく。
「ううん、大丈夫……。呑んでみる」みなみは口元に手を当てて答えた。
「俺さ、その、今みなみちゃんがやったさ、こう…口に手ぇ当てるの、なんか好きなんだよな!」磯野は笑いながら言った。「よっく乃木坂のみんなやるじゃんか?」
「ああ、わかる」稲見は微笑んで頷いた。「フェチ、というやつだね」
「フェチなら、俺あれだ」夕は笑いながら三人に言う。「手を洗ってる、女の人……。はは、変だろ? こう、普通に手ぇこねこねしながら女の人が手ぇ洗ってるの見ると、ときめくんだよ」
「見事にフェチだね」稲見は微笑んだ。
「へー」みなみは夕にはにかんだ。それから稲見を見る。「イナッチは、なんかないの? そういうの」
「あるよ」稲見は眼鏡の位置を修正しながら言った。「女性が、床に座るのが、たぶん個人的なフェティシズムだね」
「床に座る?」夕はきく。「ソファじゃダメなの?」
「ダメだね」稲見は無表情で答えた。「あぐらをかいたり、足を揃えて体勢を崩したり……。フェチというか、サカる」
「こら!」夕は咄嗟に叱った。
磯野波平は笑っている。星野みなみは関心を示していた。
「そもそもフェチとはね、フェティシズムを略した呼称でね、そもそもはものに神聖や呪力を見出して崇める、という信仰・崇拝の在り方を意味するんだ。崇拝の対象となるものはフェティッシュと呼ばれる」稲見は三人に言った。
「フェチって変態っぽいから、フェティッシュとか、そのまんまだな」磯野は呟いた。
「何がそのまま?」夕はきく。
「必要に何だろ?」磯野は真顔で言う。「ティッシュがよ」
「精神分析学の創始者として知られるジグムント・フロイトはね、フェティシズムを異常性愛・性的倒錯(せいてきとうさく)の形態区分の呼称として用いた。この文脈ではフェティシズムは汚物性愛とも訳される。精神分析学におけるフェティシズムとは、指向は似るけど、程度がいちじるしく異なるね。しかしながら、いわゆるフェチも、場合によっては変態性欲と見なされる事がないわけではない」
「な?」磯野は言う。「まんまだろ? フェチなんざ性欲よ」
「そうなの?」夕は難しい顔をする。「フロイトは嫌いなんだよな~」
「フェチという呼称が、すでにそういった雰囲気を感じさせる性的錯誤と、なんとなく日本では根付いてるからね」稲見はみなみに頷く。みなみは真顔で少し口を半開きにしてぽけっとしていた。
「フェチとは違うけど、あしゅみなとか、すっげえ好き!」夕ははしゃぐ。「もう一杯吞んじゃおー。イーサン、ラム・コーク」
作品名:ポケットいっぱいの可愛い。 作家名:タンポポ