天空天河 二
何故これ程、梅長蘇を信じるのだ?。──
取り繕うように、長蘇は言う。
「いえ、、そんな事は、、。
、、、、ですが、、分からぬのは、先日一度会っただけの私を、何故、そこ迄信用して下さるのかと、、、。
私の事を、腹に一物を持つ、江左盟の惣領と、分かっておいでなのに。
私は栄光栄華を望み、靖王殿下を踏み台に、しようとしているのやも知れない。
或いは私は、皇太子や誉王の手先で、殿下を陥れようとしているのやも、知れませんよ。」
「ククッ、、私を陥れて、兄達に何の得が?。
一度見れば、邪な者は分かろう。
梅宗主は信用に足る。それだけだ。」
長蘇は靖王に、全幅の信頼を受け、本来ならば、それで良い筈なのに、何か不安が拭えないのだ。
「全幅の信頼と言うのも、、私のような策士は不安になるものですね。
私が邪な所以ですよ。信頼なさってはいけません。」
「自分を信用するなとは。
面白い事を言う人だ。」
「私の謀に協力して頂いて、有難いのですが、私のような者を信じてはいけませんよ。」
そう言うと、長蘇は笑った。
靖王も、含みのある笑みを見せる。
──しっくりこない違和感、、、。
これは一体、何なのだろうか、、。
景琰に、、、景琰に何かが有るのだ。
朝廷としては、意のままにならぬ、江左盟なぞ、排除したいのだろうし、景琰とて、列記とした梁の臣下なのだ。
景琰に通報され、難癖を付けられ捕らえられても、私なぞ、たかか一介の民、文句は言えぬ。
だがこの違和感、胡散臭い私を害しようとか、捕まえてしまおうとか、、そういった事では無い何かが、、、。──
靖王に疑念を持ちつつも、その後は、また靖王に茶を勧められ、長蘇の生まれや、子供の頃の事を、聞かれたり、江左盟の宗主になった経緯を聞かれたり、、まるで尋問の様だった。
だが、『梅長蘇』には全て裏付けがあり、靖王の問いには、全て的確に答えた。綻びは何一つ無い。
そして、一頻(ひとしき)り、雑談をし、長蘇は靖王府を辞する事とした。
靖王との会話の中で、長蘇は、この違和感の原因を、探ろうとしていたが、何一つ掴めなかった。
──景琰は確信があって、何かを確かめようとしているのだ。
、、だが、それは一体、、、。──
「気をつけて帰られよ。」
長蘇にそう言って、靖王は微笑んだ。
長蘇は拱手して、立ち上がろうとしたが、立ち上がれない。
──景琰の、言葉尻に気を取られて、、。
自分の体の事を忘れていた。──
「失礼を、、、足が、、。」
「、、ぁ、、そうか、、梅宗主は体が、、。
椅子に掛けてもらえば良かったな。
気が利かなかった。」
「お気遣いなく、、少し時間をかければ、動けます故。」
長蘇は片足ずつ、膝を立てて、体を慣らしていた。
「私に掴まれば良い。」
いつの間にか靖王が側に来て、手を差し伸べていた。
「で、、殿下、、、(汗)。」
「誠に大変だな。この体で、江左盟の惣領がよく勤まるものだ。」
畏まりながら、靖王の手を借りて、立ち上がる長蘇。
引き締まった靖王の腕は、長蘇の体重を掛けた位では、びくともしない。
靖王は、貴重な薄手の瑠璃の器でも扱うかの如く、そっと優しく、長蘇の腕を支え、長蘇が立ち上がる力に合わせて、引き上げた。
「ありがとうございます。もう、一人で大丈夫ですので。」
靖王からの、何気無い体への気遣いに、長蘇は心が熱くなった。
──そう、、景琰は優しい奴なのだ。
、、、世の人は、あまり知るまいが、、。──
漸く靖王府を去れる、と思うと、長蘇の心は些か軽くなる。
梅長蘇として、ほっとするのが半分、林殊として惜しむのが半分。
心に少し余裕が出来た。
靖王の肩越しに、改めて書房の中を見渡した。
相変わらず、飾り気はなく、煌びやかな調度品など一切無い。
軍営の幕舎とそう変わりがない。
──昔の通りだ、、。あの頃と何も変わらない。──
年中、入り浸った靖王府の、この場所。
あの頃と、書棚の書の並びすら変わらない様で、長蘇は、刻が巻き戻されたのではないかと、錯覚をしてしまいそうだった。
書房を見渡す長蘇を見て、靖王が言った。
「簡素過ぎると、よく言われるが、、。」
「私は、殿下の書房の、佇まいは好きですよ。居心地がいいです。」
「そうか。褒められたのは初めてだ。」
靖王はそう言うと、気分が良くなったのか。
「武具や書しか無いが、この屋敷の中で、欲しい物があれば、何でもくれてやるぞ。
例えば、そう、、、あの弓なぞはどうだ?。」
靖王はそう言った。そして長蘇に、弓のある方を向かせた。
長蘇のすぐ側の、壁際に弓台があったが、気が付かなかった。
長蘇は、弓台の大弓を見て、凍りついた。
──私の朱弓、、では、ないか、、。──
「弓は剣のように、重いものでは無い。持ってみては?。
案外、そなたの手に馴染むかも知れぬ。」
靖王が支えていた長蘇の腕を離し、大弓を取り外し、長蘇に弓を渡そうとした。
「、、で、、殿下、、。私の様な病弱な者が触れては、、、、、ぁ、、お止しを、、、。」
靖王は長蘇の手を取って、無理やり弓を握らせた。
「よい、気にするな。」
握らされた朱い弓は、しっくりと手に馴染み、握った掌から嘗ての思い出が、一時(いちどき)に身体に流れてくる。
長蘇の体が震えた。
父親と勝負をして、奪い取った朱弓だった。
常に愛馬に付け、靖王と野駆けをし、山野で獲物を取っては、数日、屋敷には帰らずに、二人で野営をした。
そして林殊は、この朱弓を引いて、梅嶺で戦ったのだ。
死闘だった。
軍の矢は使い尽くし、弓は使えなくなった。
この朱弓を、林殊は梅嶺の洞窟に置き、その後は槍と剣で戦った。
、、、やがて七万の朋友が、皆、死んでいった。
惨い戦いだった。
置いてきた筈の朱弓が、何故かこの靖王の書房に、、、。
血塗れだった弓は、綺麗に磨かれ、新しい弦が張られ、だが、所々に見覚えのある戦いの傷跡。
弣(ゆずか)は林殊が使った物のまま。
はっきりと残る、掌の跡。
あの日、梅嶺に残してきた筈の朱弓が、何故かこの靖王府に。
どんな経緯でこの場所に、、、、。
そして長蘇の手に、再び握られた。
同時に長蘇は、靖王が何をしたいのかが、漸く分かったのだ。
──、、仮面を、、私は梅長蘇なのだ。
林殊では無い。──
靖王は、とうに長蘇の正体を見抜いている。
靖王の言動と行為は、長蘇に、林殊と認めさせる為。
──しっかりしろ、認めなければ、私は林殊では無い。
私が林殊と認めてしまえば、一時は二人、思い出に耽り、至極の刻を過ごせるかも知れぬ。
だが、謀の最後には、景琰を酷く傷つける事に、、。
景琰を傷付けたくない、、、。
、、、絶対に、、。──
溢れる涙を隠すために、じっと下を向いていた。だが、隠し切れない。
そのまま、幾らか涙が引くまで俯いて、汗を拭く真似をし、こっそりと袖で涙を拭いた。
そして顔を上げた時は、何事も無かったかのように、柔らかく微笑んで言った。
「情けない事に、この弓でも、私には重い。