天空天河 二
折角ですが、本当に私には無理なのです。
殿下の手元に有るのならば、名弓でしょうに、私が頂いては、弓にも気の毒な。勿体ない。」
何事も無かったかの様に、靖王に朱弓を捧げ、返したのだ。
「、、何ッ、、。」
長蘇が、動揺したのは直ぐに分かった。靖王は、梅長蘇が観念して、『自分は林殊だ』、と、正体を明かすと、思っていたのだろう。
長蘇の思いがけない返答に、『まさか』と驚いた様な、そして悔しそうな、表情をしていた。
ついさっきまで、動揺していたのが嘘の如く、長蘇は明朗な口調で話した。
「靖王殿下、実は一つお断りが、、。
今後、私は、一時的に誉王を支えます。
ですがこれも、皇太子と誉王を失脚させる、私の策略の一部。
そして、決して皇太子と誉王の、お命を脅かす事は致しません。
どうぞ、ご心配無き様。
では、失礼致します。」
長蘇はそう言って、今までの柔らかな笑みとは一転、氷の様な笑みになった。
長蘇は深々と拱手して、後ろに下がり、書房を出て行った。
書房の敷居を跨いだ所で、少しふらついたが、後はしっかりした足取りで歩いていった。
──、、景琰の馬鹿。
正体を見抜くな。──
長蘇に怒りが込み上げた。
──、、、景琰が、悪い訳じゃない。
、、、八つ当たりだ、、、分かってる。
当時は、林殊の勘の良さに、隠れてしまっていたが、景琰とて、勘が鈍い訳では無いのだ。
、、、、私の正体を知る事は、当然と言えば当然。
だが、、これ程早く知られてしまうとは、、。
出来れば、最後まで知られない方が、景琰にも私にも、心が楽だった。──
靖王府の兵士に、案内され、馬車の待つ王府の門へと向かった。兵士の後を歩いていたが、長蘇は兵士なぞを追ってはいなかった。
林殊の記憶が、靖王府の門へと向かわせ、長蘇の頭は目紛(めまぐ)るしく、思考を繰り返していた。
──今日のコレで、景琰は、私の正体に確信を持ったはず。誤魔化されはしないだろう、。
だが、私が認めなければ、、、認めなければ景琰だって、どうにもならん。
私が林殊である証拠は、何一つ無いのだ。
、、景琰、、言ってしまえたら、どれ程心が楽か、、。
だが、国の命運もかかっているのだ。
、、、そしてお前の為にも言えぬのだ。──
長蘇はあっという間に、王府の門まで来ていた。
門の外には、長蘇の乗ってきた馬車が用意されて、飛流が待っていた。
門には戦英が見送りに来ていた。
長蘇は、戦英と拱手し合い、言葉は交わさずに、馬車に乗り込んだ。
そして靖王府を後にして、蘇宅に向かった。
初め飛流は、馬車の屋根に乗っていたが、馬車が動くと直ぐに、馬車の中に入ってきた。
長蘇は顔面蒼白で、馬車の壁に凭(もた)れて、目を瞑り動かない。いつもなら、目を閉じていても、飛流が入ってくれば、気が付き、微笑んでくれるのだ。
心配になり、長蘇の白い頬に触れた。
飛流には、温かいも冷たいも分からぬが、長蘇の具合の悪さは理解ができた。
触れられて、初めて飛流に気が付き、長蘇は目を開けて微笑んだ。
疲労困憊の長蘇が無理に、飛流に笑顔を見せたのが分かる。
無理矢理作った笑顔を向けられ、飛流は長蘇を、可哀想だと思った。
主は靖王府に入り、靖王に何か酷い事をされたに、違いない、と思った。
「やっつける!。」
靖王という奴の顔は覚えている。飛流は、靖王という奴を、殺して来ようと思った。
「行くな!。」
今にも馬車の帳を開けて、飛び出そうとする飛流を、長蘇は止めた。
長蘇は、飛流の衣を掴んで止めようと動き。
だが、衣は掴めず、長蘇の手は空を切った。そして無様に、座席から落ちてしまった。
「、、ぁ、、ぅぅ、、、。」
長蘇は、強か膝を打った。痛みが呼吸を乱した。
長蘇の体は体温を失い、冷え切っていた。
気力で靖王府の廊下を、力強く歩いて来たが、体は倒れる寸前だったのだ。
どこをどうやって歩いて来たか、よく覚えていない。
馬車が止まり、御者が顔を覗かせた。
「だ、、大丈夫ですか?、、宗主??。」
長蘇が落ちた音に驚いて、何事かと思ったのだ。
「、、、、。」
長蘇は、御者の顔を見たが、話す気力はもう無い。
飛流が立たせようとしていたが、長蘇は立てなかった。
御者が長蘇を助け起こし、座席に座らせた。
「宗主、どこかで休みますか?。」
「、、、イイ、、ユックリ、イケ、、。」
やっとの事で、小さな声で言葉を出した。
御者は、極力揺れぬ様に、ゆっくりと馬車を進ませた。
幾らか揺れが、穏やかになった馬車の中、眠ってしまえたら楽だろうに、困った事に長蘇の頭は冴え切っていて、今後の事を考えていた。
──大誤算だった、、、。
景琰は何故、私の正体が分かったのだ。これ程、姿も性格も、変わってしまったと言うのに、、、。
一体何が私の、、、。
だから景琰は無条件で、協力すると言ったのだ。
林殊がしようとしている事だから、、、梅長蘇を信じたのではなく、林殊だからだったのだ。
景琰はこれから、私の正体を暴こうとするだろうか。
つい懐かしくて、林殊が出た。だから正体が分かったのか?。
、、、、、いや、、とうに知っていた様子だった。
ならば、あの東屋で出会った時に、、?。
何て奴だ、、、。
、、、景琰を鈍感な奴だと、侮っていた、、。
そんな訳は無いのだ。
もっと、、もっと、、、、景琰には、殊更、慎重になるべきだった。──
反省もするが、今更、過ぎた事を戻せはしないのだ。
──、、だが、懐かしかった。
、、、靖王府、、、。
あの頃と何も変わらない。
堅剛な造りが好きで、、。
私は入り浸った。
目を瞑っても歩ける程、、、。
十七で皇宮を出て、独り立ちする景琰が、大人に見えて、酷く羨ましくて、、、、。
祁王が、景琰の住まいを、見繕って改修した、靖王府、、。
武門の堂々たる構えだった。
私も『自分の屋敷を持ちたい』と、我儘を言った。
だが父や周囲の者は、取り合わなかった。
酷く意地けた私に、祁王はこっそり、屋敷を用意してくれたのだ。
私が婚礼を挙げたら、祝いに私に贈る、と。
『梅石楠』名で購入していてくれた。
梅石楠は、父、林燮が、若い頃に使った偽名だった。
父は若い砌(みぎり)に、江湖に身を置き、修練したのだ。
荒修行に、江湖の世界を渡った。決して珍しい事では無い。武人が荒野に下り、腕を試すのだ。
そんな時は大概、本名は名乗らず、偽名を使う。
家門の為には、名を馳せてもいけないし、恥をかいてもならぬからだ。
祁王は、たまたま父の偽名を知っていたが、林燮の偽名を知っている者なぞ、誰もいない。
だから、祁王府と林家の財が、全て没収される中、梅石楠名義のあの屋敷は残ったのだ。
そして今、私は蘇宅として、引き継いだ。
祁王は皇太子にこそ、封じられてはいなかったが、嫡子のいない梁の皇室の長子として、次の皇帝に就く事を、朝廷や梁の民は疑っていなかった。
そして祁王自身も、その責務を負い、朝臣もまた祁王の能力を、認めていたのだ。