天空天河 二
六 簫景琰
━━今し方、小殊が、私の書房から去って行った。
私が正体を詮索し、暴きかけ、それに狼狽えたと思ったのだが、、。
去る時は、思ったより、しっかりした足取りだった。
つい先日、金陵への街道の東屋で、『蘇哲』と名乗る男に初めて会った。
私は、辺境の軍務からの、帰路の途中だった。
書生には、生白い者が多いが、蘇哲は際立つ程の青白い書生で、病弱と言うのも頷けた。
蘇哲は、青白さとは対称的に、自信に満ちた顔をしていた。
病故に、活動は制限されよう。蘇哲にとっての学問は、病を持つ身の、手慰みなのだろうと思った。
蘇哲に触れた時の、身体の冷たさ。
医女であった母が言っていた。こういった者は、長くは生きられぬ、と。
蘇哲の、時折見せる、屈託のない笑み。
蘇哲とは初対面なのにも係わらず、『この笑み、何処かで見た事がある』、と、ずっと私の心に引っかかっていた。
親しげでいて、何処か距離を取っているような、乾いた笑み。
だが、その笑みの中で見せる、昔からの友にしか見せぬだろう、邪気の無い、一瞬の心。
何故か、小殊の事を、やたらと思い出した。
出来たらこのまま、蘇哲を靖王府に連れて帰りたい、と思った程。
馬車に乗る蘇哲を支えた。
蘇哲の手が、私に触れる。
酷く細い指。
私は昔、己の手の事で、小殊に揶揄われたが。
蘇哲の手は、私が力を入れれば、砕けてしまいそうな儚さがあった。
蘇哲は酷く細い身体で、相当着込んで居たのが、体を支えていて、分かった。
馬車に乗る際、支えた重みの半分程は、衣の重さでは?、と思えた程。
離れて蘇哲を見た時、細い手の割に、体が普通に見えたのは、着込んでいたからなのだ。
蘇哲が、くすりと目を細めるその笑みは、
遠い昔に見た、、、忘れられぬ者の笑み。
、、、、、まさか、、、と。
ふと、そう気がついたのは、靖王府への帰途での事。
皇宮で、散々、陛下に待たされ、報告を終わらせ、王府に帰ったのは、夕闇が迫る頃。
書房に落ち着くと、程なく戦英からの報告が。
『先程の蘇哲は、江左盟の惣領でした』と。
驚いた。
戦英も、あの青白い蘇哲が、江湖の一大勢力の惣領とは、と、驚いていたが、間違いは無いと。
蘇哲の本当の名は、梅長蘇と言うのだと。
「梅長蘇??!!。」
「は?、、、殿下、梅長蘇をご存知で?。
梅長蘇の、金陵での住まいは、長厀坊(ちょうしつぼう)の辺にある、広い邸宅だとか。
使われていなかった、父親の屋敷を継いだそうです。」
「!!!長厀坊の近くの屋敷だと?。
長く空き家になっている、あの屋敷か?。
梅長蘇はあの屋敷に住むのか?。」
「は?、、そこまでは良く分かりませんが、、。
、、おそらく、、、そうなのかと、、。」
戦英は、驚いた顔をしていた。
世事に疎い私が、空き家の屋敷の事など、知っている事が、意外だったのだろう。
「、、梅長蘇の父親の名は?、、屋敷の名義は誰なのだ?。」
「申し訳ありません。
、、そこまでは調べが、、。」
戦英に、至急、その屋敷の名義人の名を、調べる様に言った。
そして、戦英は最後に、、。
「どうやら、誉王に策士として、わざわざ廊州から、呼ばれたという事らしいのです、、。
江湖の大物が、皇太子と誉王の権力闘争に、加わると言うのでしょうか、、。」
心が騒ついた。
、、あいつが、誉王の元に。
『梅長蘇』、そして父親名義の屋敷。
屋敷の名義は、『梅石楠』に違いない。
梅長蘇の名と、屋敷の場所を聞いて、私の中の歯車がかちりと塡(は)まり、突然、刻が動き出した。
蘇哲は小殊で間違いない。
小殊が、私の元にも戻って来た。
何と、、言う事だ。
蘇哲に会ってから、酷く、小殊を思い出す。
あの者は、
小殊だったからなのだ。
祁王が存命だった、赤焔事案の三年程前。
祁王に、「極秘で『梅石楠』名義で、屋敷を購入した」と、打ち明けられた。
私が皇宮からこの靖王府に移って、一年程が、過ぎた頃だっただろうか。
王族が偽名を使って、私邸を構えるなぞ、珍しい事ではなかった。
そして、祁王が屋敷を購入して間も無く、靖王府と梅石楠の屋敷の二つを、地下通路で繋ぐ、と。
「暫く、靖王府の書房に、従者は置くな。静かに行うが、工事の音が幾らか漏れるかも知れぬ。
何か言われたら、屋敷の者には、適当に言い繕ってくれ」、と。
長子として、何かがあれば、、、例えれば政変など、、、。
きっと、靖王府と梅石楠の屋敷を使って、難を乗り越える対応を、するのだろうと。先々への不安を払拭する備えだと思い、不思議にも思わなかった。
地下通路は、梅石楠の屋敷の、本格的な改修の前には、既に完成しており、、、。
祁王がある日、靖王府を訪れた際。
祁王は、地下通路への扉の仕掛けを教え、
そして梅石楠は、林燮の偽名なのだと、、。
屋敷は小殊が婚礼の折にでも、祝いに贈ろうかと思っているのだが、と。
誰にも言うなよ、と。
そして、、
「大事な従兄弟だ、頼むぞ、」
祁王はそう言って、意味深に笑ったのだ。
顔が熱く火照ったのを覚えている。
心の臓が早鐘のように、、、。
、、、祁王は、小殊との関係を知っていたのかも、、。
祁王に教えられる迄、私は知らぬ事だったのだが。
林主帥は若い頃、『梅石楠』の名で、江湖に身を置いていた事が、あったのだと。
妹の宸妃や林家の一族、軍の同僚も知らぬ事なのだと。
祁王は何処で知ったのか。
林主帥は、梅石楠として江湖で、荒修行をし、武術の腕を磨いたのだ。
赤焔事案が起り、祁王家と林一族の者は皆、処刑されるか奴婢として下賜されるか、官婢として配されるか、、、。そして祁王家と林一族の、全ての財が、国庫に収容された。
だが、梅石楠のあの屋敷は、没収される事無く、ずっとそのままで。
私は、時折、地下通路を通り、梅石楠の屋敷へ足を運ぶが、、、、
主、無き屋敷は、
時を重ねるにつれ、荒れていったのだ。
荒れてゆく屋敷を見る事は、胸が潰れる思いで、私の足も、次第に遠のいていった。
小殊、、、
長い間、何処にいたのだ。
何故、あの様な姿に、、、。
顔が、、顔がまるで違うのだ。
別人ではないか。
そして、怪童とまで言われた、火の男が、あれ程冷たく細い体に、、何故、、。
冷えきったお前の手が、まだ私の掌に、はっきりと残っている。
身体は、辛くは無いのか?。しっかり食べているのか?。
ちゃんと治療はしているのか?。
そして、この金陵の誉王の元で、一体何をする気なのだ。
小殊は、誉王の元に潜み、何かを起こす気なのだな。
誉王は祁王に毒酒を届け、その最後を見届けた。
その事は、世間に知られている。
いかに陛下の命令で毒酒を届けたとて、小殊は誉王のした事を許せぬ筈。
ましてや、誉王の元で働くなぞ。
殺意を秘めて、誉王の為に動くと言うのか?。