消えてしまう前に
今ではもう、それは朝だけでさえない。家に帰ってくると、私はカレンダーで明日を確認している。明日という日を、どうしても、確認してしまう。
気持ちが悪かった……。
どうしようもない。
どうにかできる可能性だって、私にはない。私は恋愛が下手くそだったし、これが恋だという保証さえないんだ。ただただ、気持ちが変になるだけなんだ……。
狂ってしまいそうで、叫びたくなるような、そんな苦しさが胸にはある。私はこの気持ちを、たぶん、でしか、例えられない。たぶん、好きなんだろう、と、そう納得して、我慢するしかなかった……。
我慢しかできない。我慢するしかない。
テレビを観ていても、友達と喋っていても、そんな気持ちは何処までもついてくる。
もしも私が、もっと人を好きになる事がうまかったならば……。こんな、変な気持ちには負けなかったのだろうか。
負けないでいられるのだろうか……。
わからないし、泣けもしない。好きだと言いたいのに、言えるわけなんてない……。
好きかどうかも、わからないんだ……。
何もない、平常通りの明日が、私を待っているんだろう。
何も可笑しいところのない、普通の明日。
特別でも何でもない、ただの明日。
私だけが、変なままで、私は明日を迎える。
こんな気持ちを、誰かは味わった事があるのだろうか。誰でもいい、あるなら、私はどうすればいいのかを教えてほしい。お母さんはこんな事を言っていなかった。
苦しい。何も変わっていないのに、どうしても、私は寂しさを感じてしまう……。
こんな気持ちになるんなら、はじめから、恋なんて欲しくはなかった。勝手に好きになってしまう、そんな馬鹿げた気持ちなんて、私にはどうしようもない……。
私はどうするつもりなのだろう。
どうにもならないけれど、どうするのだろう。
どうしたいのだろう……。
好きなのか、と、そうまた己に問いかける事が情けなかった。人を好きになるとは、どんな気持ちだっただろうか……。
私はただ黙って、この変な気持ちでいるしかない。
それしか、私にはできない。
そんな事しか、私には考えられないのだから。
4
「お山作ろうよ」
「……」
初めて出逢ったのが、住宅街にある、この小さな子供公園だった。
粉雪が降っていたその日、大ちゃんはその公園にいた。
「お名前はあ?」
「……」
何も言えないまま、ただ赤面しているだけの私に、大ちゃんはにっこりと微笑みかけてくれた。
「僕はねえ、柳大助。君はあ?」
「……」
初めて会ったにもかかわらず、大ちゃんはとても積極的だった。赤いむくむくとした可愛らしい手袋で、私の手をぎゅっと握った大ちゃんは、すぐにそのまま、私を砂場へと引っ張った。
「お山作ろう」
「……」
時間をかけて、私はそんな大ちゃんに、少しずつ心を開いていった。
「あたし、あやめ…、っていうの」
「あやめちゃん?」
「うん……」
「可愛い名前だね」
真っ赤に染まったほっぺたをして、白い息を吐きながら、大ちゃんは綺麗な顔で私に微笑んだ。
他にも何人かの子供達が、お母さんに連れられてその子供公演にいた。でも、私と大ちゃんだけは二人だった。それからよく私と遊ぶようになった大ちゃんは、いつも私に「寒くな~い?」と言って、自分のジャンパーを貸そうとしてくれる。いつもが大抵、背中に可愛い熊がプリントされている、その黒いジャンパーだった。
まだ四歳の私達は、そんな可愛らしい時間の中で、お互いを好きになっていった。
「あやめちゃんさあ、今度うちに遊びにおいでよ」
「うん」
私達は必死になって走り回った。川へ遊びに行ったり、地元小学校の裏手にある裏山に登ったり、幼稚園に通っていない私達は、いつも夕方頃にその子供公演で待ち合わせをして、一緒に走り回った。
たまに、子供公演に大ちゃんを迎えに来た大ちゃんのお母さんに、二人して叱られたりしながら、私達はどんな時だって泥だらけになって遊んだ。
粉雪が降っていたあの日、大ちゃんと出逢って、私は大ちゃんと親友になった。好きになった。大ちゃんも、私の事を世界で一番好きだと言っていた。
赤いほっぺで、私ににっこりと微笑んでいる大ちゃんが、私は大好きだった。
胸がきゅうんとなって、少しだけ、狂いしくなるんだ。
ジャンパーを脱いで心配そうに私を見ている、そんな大ちゃんが本当に素敵で、本当に大きく感じて、一緒にいると、私はいつだって幸せな気持ちになっていた。
「大ちゃんさ~あ、あたしのどこが好きい?」
雪がとけ終わった頃に、私はいつもの砂場で、大ちゃんにそうきいた。
「全部だよ~!」
大ちゃんは大きく大きく、両手でマルを描いて、私に満面の微笑みを浮かべていた。
大ちゃんのお母さんなんて、いなくなっちゃえばいいと思った。そうすれば、私はもっと大ちゃんと遊んでいられる。四歳の私はそう思っていた。
同じ歳なのに、私よりも優しくて、私よりも力が強くて、その公園で誰よりもジャングルジムが似合っていた大ちゃん。
寒かった時には、白い息がとても素敵に見えて、雪がとけた後は、半袖が勇ましく見えた。どんな大ちゃんも、私には王子様に見えた。
私は、そんな気持ちしかしらない。
それが私の知っている全てだった。
大ちゃんと一緒にいる時の気持ちが、私の知っている好きだった。
私は、それしかしらない。
好きとは、どんなものだっただろう。
こんな気持ちは、本当の好きではないのかもしれない。
ふと眼が覚めた後、気が付くと私は、また冬景色のカレンダーを見つめていた。
5
あやめはさっそく学校鞄を肩にかついで、その玄関を飛び出す。
「おっはよ」
「いっつも黒いね~」
「うっさいから。レイちゃんもでしょ」
毎朝定刻にあやめを迎えに来る、親友のレイと肩を並べながら、あやめは学校までの通学路をいつもくだらない会話で埋めるのが好きだった。
「今野先輩どうなった?」
あやめはそれを待っていたくせに、嫌そうな顔で赤面する。
「どうってえ?」
「どうってえ、ってあんた、決まってんでしょう? 進展してるかってきいてんの!」
「は~だって…、しゃべんないもん」
「話しかければいいじゃんか」
「は~? 私が~?」
小鳥のさえずりが耳に優しい住宅街の道のりを、あやめとレイはいつもハイテンションで歩く。学校までの道のりを川が遮ったところで、あやめとレイはいつも缶ジュースを買う習慣になっていた。
「ガキってると誰かにとられちゃうかもよ。あねえ、今野先輩ってまっじモテるらしいよ」
「ふーん」
「ふーんって言ってらんなくなるよ? 知らないかんね?」
「レイちゃんだって、何だかんだあるじゃーん」
「あたしはちゃんと告ったもん」
「え?」
あやめは脚を止める。後ろから来た男子生徒が、ゆっくりとした歩行であやめを追い抜いていった。
「知らなかったの……。信じらんない」
あやめよりも少し行ったところで、レイは呆れ顔であやめを振り返った。
「え?」あやめは驚き顔のままで、レイの場所まで急ぐ。「でどうなったの?」
「何で知らないかな~……。すっごい噂とかんなってんだけど」