消えてしまう前に
あやめの言葉に母が振り返った。それから母は包丁をまな板の上に置き、軽く水で手を洗い流してから、すぐにまたその優しい顔をあやめにみせた。
「じゃあ、ちょっとそこに座ろっか」
母はそう言って、四人掛けのテーブルに先に腰を下ろした。あやめも頷きを返さずに、そのまま静かに母の向かいに腰を下ろした。
母は目尻に素直な皺を作って微笑んでいた。
「恋をしたのねえ」母は嬉しそうに口元を緩めた。「素敵な人なの?」
あやめはすぐに困ったような顔で、短く首を横に振っていた。
「違うの……。あのね…、好きなのか、どうか…、よくわからなくて」あやめはその表情を丁寧(ていねい)に曇らせた。視線はテーブルに落とされている。「その……、なんか、今までの気持ちとは、全然違くて……」
「あやめ」
あやめは母の声に顔を向けた。
「お母さんも、あやめとおんなじ年齢を経験してきたんだから、あやめとおんなじ気持ちだって知ってるよ」母はそう言って、柔らかい小さな手で、あやめの手を握りしめた。「好きになったって、誰もあやめに文句なんて言わない」
テーブルの上で繋がれた母の手は、とても暖かく、そして、とても大きく感じられた。
「好きになる事は、自然な事なんだから。みんな計算なんてしないよ、あやめだって、自然にそうなったの」母はあやめを見つめたままで、更に目尻に皺を寄せて微笑んだ。繋がれた手に柔らかく力が込められていた。「後悔をしないように、あやめが思った通りすればいいじゃない」
あやめは頷いた。そのまま、あやめは顔を上げない。
心から欲しいと願い続けた、そんな一言であった。あやめは母の手を握ったまま、肩に力を入れて、声を殺した。
部屋に戻ってからのあやめは、もうカレンダーを見なかった。
いつのまにか窓の外には雪が降り始めている。それは毎年この時期によく見る風景であった。
深々と舞い落ちる雪の結晶を見て、あやめは懐かしいと、それを噛みしめていた。そんな時期に、またなったのだ。
積もるのかもしれない。自分は、雪と相性が良いのだろう。あやめは何かに小さく納得をして、静かにその窓を閉めた。
あやめはベッドの上で膝を抱きかかえ、そのままゆっくりと膝の上に顔を埋める。どこに向けられているわけでもないその眼は、もう遠い日を懐かしむように、窓の景色を濁(にご)らせていた。
膝を濡らしていくそれは、霜月(しもつき)の終わりに降り落ちるその初雪のように、小さな小さな、透明な雫であった。
7
その日、雪が深々と夕焼けの空を白く染めていた。
「なあに?」
大助は白い息を吐きながら、あやめの肩にぶつかった雪を一所懸命に払い落とす。しかし、あやめの肩に積もる雪は、その小さな赤い手袋をあやすかのように、次々とあやめの肩に積もっていく。
あやめは両の手を口の前に当て、温かな息を吐きかける。寒さに耐えるその懸命な顔は、あやめの雪を払おうとしている大助に向けられていた。
「大ちゃん……」
「なにい?」
大助は寒そうな顔であやめに首を傾げる。赤く染まった頬には、ぴしぴしと乾燥線ができていた。
「もうね」
「うん」
あやめは泣き出しそうな顔をする。大助はすぐに心配そうな表情であやめの顔を覗き込んでいた。
「どうしたの?」
大助が大袈裟にあやめの顔を覗き込むと、大助のかぶっていた赤いニット帽から、パラパラと積もった雪が粉(こな)れ落ちた。
「どっか痛いのあやめちゃん」
あやめは大きく首を横に振った。
「なんか無くしちゃったのう?」
大助は心配そうにそう言って、己のジャンパーをいそいそと脱ぎ始めた。
大助は眼を隠して泣いているあやめに、可愛い熊のプリントが入った黒いジャンパーを差し出した。
「これ着ていいよ、僕あんまり寒くないから」
あやめは薄目を開け、首を横に振ると、それからすぐに大きな声を上げて泣き始めた。
子供公園に白雪は深々と舞い落ちる。街灯の頭にも、ブランコの背にも、ジャングルジムの身体にも、寒そうな雪の小山ができていた。
「大ちゃんがぁ……好きだよぉ……うあ~…ん」
そう言ってあやめは地団太(じだんだ)を踏んだ。大助はジャンパーに腕を通して、ぐっと寒さを我慢する。
「僕もあやめちゃんが好きだよう……」
大助は困った顔で、子供公園を静かに見回してみた。
辺りはすっかり白銀の景色に変わっている。空には夕焼けが見えるはずであるが、今日はその空さえもが白く雲で覆われていた。
大助は急に不安になる。さっきまで一緒になって雪だるまに夢中になっていたのに、どうして突然にあやめが泣きだしたのかがわからなかった。
「大ちゃ~ん…うあ~ん…」
胸を張ったような姿勢であやめは泣き続ける。大助の口元も、それにつられてか、とうとう下の方に引っ張られ始めていた。
「あやめちゃん……泣かないで」
大助はまた、泣きそうなその顔を、口をきっとしめる事で回避した。それからすぐに気が付いたように、あやめの雪を払おうとする。
大助は、はっと、あやめを見た。
あやめは鼻水を垂らしたそんな泣きべそのままで、大助の事をじっと見つめていた。
「大ちゃん……」
「なあに? もう帰りたいの?」
心配そうに言った大助に、あやめは弱く静かに首を横に振った。
「あ…あさってね、いつもの時間に……っひ…ふ…、あたしのおうちに来てえ……」
あやめは何とかでそう伝えると、すぐにまた声を出して泣いた。
「お…おうちっ…う…わかっ…わかるよねぇ…?」
「いいよ、わかった。ちゃんと行ってあげるから」
大助は真剣な顔つきで、泣き止まないあやめに小さな小指を見せた。
「指きりげんまんしてあげるから、ね? あやめちゃん、もう泣かないで」
「っひ…ふ、うん」
赤い手袋をはめたその小さな小指は、白い手袋をはめた、その小さなあやめの小指を優しく掴んだ。
「ゆ~びき~りげ~んま~んう~そつ~いた~らは~りせ~んぼ~んの~ます、」
「ゆ~びきった!」――。
あやめを見つめる大助の顔は、いつもと同じ、真っ赤な頬の、満面の微笑みであった。
大助を見つめているあやめの顔も、ここで出逢った一年前のあの日と、同じような笑顔であった。
出逢ってから、少しずつ、一日を重ねていき、そうして共に五歳になった二人は、降り積もってゆく雪のように、真っ白な感情を交わし合っていた。
雪だるまに駆け寄り、また、楽しそうな声を上げる。
まるで寒さも感じぬように、つい先ほどの涙をもうすっかりと忘れ去ったかのように。
母親が大助を迎えにその公園を訪れるまで、二人はその白い時間を力いっぱいに走り回っていた。
8
あやめが考え耽(ふけ)っていると、間もなく雨宮昇(あめみやのぼる)が傘をさしながら公園に入ってきた。あやめはそれを待ちわびたかのように、大きく手を振った。
「傘持ってないの?」雨宮は驚いた調子で言った。「風邪ひちゃうよっ」
「ごめんね。私も入れて」
「まったく、ああ……」雨宮は困った顔であやめを見る。「どうしてそんなに無茶なの、風邪ひいてからじゃおそいんだぞ」
「ごめんなさい……」