消えてしまう前に
気持ちは充分でもなんでもないが、俺は約束通り、筒井あやめに会いに行く。
正直、自分が壊れそうで怖い。
一昨日の筒井さんは、尋常じゃなかった。あの突然の涙にも、何か、俺に伝えたい理由があるのだろう。
正直、考える幅が大きすぎて、怖いとしか言いようがなかった。どうして、家に呼んだのだろう。それも突然に……。デートという、その可能性は無いに等しかった。それは最初に俺が消去した可能性だ。
では、考えられる枠で……。やはり、求婚だろうか?
何を言う前に、まずは笑えてしまう。自分の容易さがやたらと馬鹿馬鹿しかった。そんな関係じゃないんだ。手さえ握った事がない。しかし、出てくる良い可能性は、結局のところ何度もそこに帰結した。
後は、全てが悪い可能性だ。考える事自体が俺を憂鬱(ゆううつ)にさせる。筒井さんは泣いていたんだ……。あの泣き方は、やはり、悪い事を暗示している気がする。
何処かに引っ越すのだろうか……。
自分に許嫁がいて、独身最後の気分転換に、俺とプラトニックな時間を過ごしていたのだろうか……。
なんにせよ、筒井あやめの実家に到着した時、俺は彼女の口から何かを告白されるのだろう……。
住宅街の並びに建った、珍しいパン屋だった。一般と変わらぬ日本家屋の造りで、屋根看板には大きな墨文字で〈筒井パン〉と出ている。
少し離れた場所から、俺はそのパン屋を遠目に呼吸を整えていた。四年間の半分は訪れていたあの子供公園を通り過ぎた辺りから、俺の緊張は人生最大の難関を迎えていたんだ。
小鳥のさえずりが耳に優しかった。俺の置かれている立場を知る由もない無邪気な小鳥達が、俺に安静を与えようとしている気がした。
胸に手を添えて深呼吸を繰り返していると、筒井あやめの実家であるパン屋から、小学生くらいの男の子が二人、胸にパンの袋を抱えて元気に飛び出してきた。それを見た時も、俺は心に一瞬の安静を受け取っていた。
どうやら、この住宅街にある筒井パンは、そのニーズに完璧に応えているようだった。まだ幼い子供たちが、子供同士で気にせずに来店できる店。遊び疲れて小腹がすいたら、泥だらけの靴のまま、ちょこっと足を運んで、笑顔でパンを買って帰れるんだろう。
筒井あやめにぴったりのイメージだった。おそらく、ここが筒井さんの職場なのだろう。この雰囲気も彼女に相応しいし、ここで実家の手伝いをしていれば、あの時間帯の散歩も頷ける。距離的な立地条件も、その雰囲気も、そのまま筒井あやめの素性を教えてくれているようだった。
俺は雪の上に立ったまま、まだ、そこに足を運べない。もう十メートルも歩けば、そこがそうなのに、俺はそれ以上前に進めないでいた。俺は本当に何も知らなかったんだ。彼女において知っている事といえば、俺が彼女に持つイメージと、その感情だけだと言える。この四年間を、俺はそうしてきたのだ。
そして、俺はどうしてか、今急にこんな場所に訪れている。前進を躊躇するには充分過ぎる理由だった。
そこには、筒井あやめが居る。筒井あやめの全てがあるような気がする。それが怖い……。俺の知らなかった筒井あやめ。この四年間の集大成がこの一日にある事は間違いがなかった。
あの涙は……、何に対して、流した涙だったのだろうか。
俺は歩き出した。雪に俺の足跡を作りながら、ゆっくりとではなく、それを決意するように、どうどうと、その場所に足を踏み入れた。
店内の清楚なイメージ感がすぐに筒井あやめとマッチした。壁を囲うように並べられた二段の棚。入り口の傍ではまだ一人だけ、低い方の棚に並べられたパンと格闘している小さな子供がいた。小さなお客さんを快く受け入れるその方針も、筒井あやめの女神のような明るさとだぶって感じられた。
会計カウンターが店内の右正面にあるのだが、店員の姿が見えなかった。そのカウンターの左横には襖(ふすま)があり、そこから少しだけ畳の部屋が覗けた。パンを買いに来た客が店員を呼び出すシステムなのだろうとすぐに理解できた。田舎にはありがちなシステムで、子供客が多い店なんかによく見る光景だった。
俺は一通り店内を確認した後、すぐに小さな子供にあやかるように、同じくパンを物色し始めた。その間に、発するべき一言と、最初の勇気を溜めておこうと思ったのだ。
やけに静かな店内が緊張を爆発させる。この奥には畳に座ったままテレビでも観ている、筒井あやめがいるのかもしれない。そう想像するだけで、俺の溜まりかけた勇気はちゃらになってしまう。
店内に音楽でもかかっていれば、少しは気が紛れただろうか。何にしても、そうに違いないだろう。こんな緊張は、生まれて初めてだった。
手に持ちかけたパンを、また丁寧に棚に戻し、俺は最大の勇気と共に、その一言を発した。
「あの……、すみません」
すぐに陽気な「は~い」という声が襖の向こうから返ってきた。その声に若さが無かった事で、緊張のピークは一時中和される。
「はい、ああ」
襖を開いたのは、三角巾(さんかくきん)をかぶった、エプロン姿の中年の女性だった。おそらく、筒井あやめの母親だろうと思う。口元の辺りに少しだけ面影があった。
「はいはい、ちょっと待ってね」
「あ……、はい」
三角巾の女性はすぐに俺にそう言って微笑みかけると、またいそいそと襖を閉めて、畳の部屋に足音を立てた。
次に襖を開くのは、筒井あやめだ……。
連続していた胸騒ぎがピークを迎える。咳払いなどを済ませながらも、俺の心はわけのわからない高揚を繰り返していた。
前髪を何度か触って、スーツの具合を再確認した。緊張は連続している。
肩をリラックスさせて、じんと冷えていた指先を短く見た。
もう一度小さく咳払いをした時、動かそうともしていない肩が、急にビクリと反応した。
心臓が止まりそうだった。
閉められた襖の向こうから、突然に親子会話のような声が聞こえたのだ。その声は先程の三角巾の女性と、少しまだ若い口調の女性のものだった。おそらく、親子という関係に間違いはないと思う。それが筒井あやめの母親と、妹であるという事を俺は一瞬で理解していた。
しかし、最初に反応した俺の肩よりも、今では俺の心の方がよっぽど動揺している。それもその筈、その親子は、まさに俺の話をしていたのだった。
「店の中でいいんじゃないの?」「外でいいよ」というような会話をしている。それはつまり、筒井さんが、何処で俺と話をするかについての会話だった。
それでわかる事は、つまり、筒井さんがこれから俺に語ろうとしている話の内容が、簡単な事ではなく、彼女にとって、さも重要な事だということになる。筒井さんが今日俺を家に呼び出している事を実家が知っているというのが、完全にそれを証明していた。
頭が混乱し、ピークを更に超えた完全的な不安に襲われた。胸が既に失恋に近しい傷を負っている。
彼女は、今日俺に何を伝えるつもりなのだろう……。家でいいと、外でいい。これによって、それが求婚の話である可能性が完全に低い事が既にわかってしまった。