竜胆
今夜の稼ぎ分の金をあの少女に与えてやることは簡単だ。そうすれば、あの子は今夜の客を取らずとも食事ができるのだろう。だが、それだけだ。苦しい暮らしをしているのは、もう見えなくなったあの子だけではない。煉獄に救えるものは、せいぜいが鬼の魔の手からだけだ。
ならばせめてそれだけは必ずや守ってみせる。溜息一つで鬱屈を吐き捨てると、煉獄は顔をキッと上げ歩きだした。
通りには甲高い笑い声がひびいていた。酒精に浮かれた嬌声が聞える。欲望の街の闇は深い。心理的にも、物理的にも。
「冨岡はどこにいるんだろう」
煉獄には、冨岡の詳しい居場所は明かされていない。後方支援とはいうものの、詳しい任務内容は教えられぬままやってきた。
潜入捜査であるからには、何日もかかるのはいたしかたないが、この街に冨岡がいるのかと思うと、ジリリと胸のうちが焦げつくような心持ちがする。
思い浮かべる冨岡の玲瓏な横顔は、享楽的なこの街にはあまりにも不似合いだ。なぜ冨岡がこの任にと、煉獄はまた思う。この街では清廉な冨岡はかなり浮くだろうに。
それでなくとも冨岡は口が重い。潜入任務には向かぬ性格だ。
だからこそ援護が必要なのだろうが、いったい自分がなにをすればいいのかも、煉獄にはよくわからない。鬼よりもその前が厄介だという話だったが、冨岡はどこでなにをしているのか。
冨岡が後(おく)れを取るとは思わないが、なんとはなし不安にもなる。どんなに気が急いても、大声で呼びまわるわけにもいかない。潜入任務で目立つのはきっと悪手だ。
とにかく自分の足で探し回るよりないかと、煉獄は油断なく周囲に視線を走らせながら、怪しげな通りを歩く。と、暗がりから不意に腕に触れた手があった。
「ねぇ、お兄さん。遊んでかない?」
声をかけてきたのは、煉獄よりいくらか年上そうな女だった。はしたなく着崩した着物を見るまでもなく、明らかに私娼だ。
「すまん! 客ではないのだ。人を探している。この辺りで、長髪の、俺より少し背が低いくらいの男を見かけなかっただろうか。とても美しい人なので、見かければわかると思うのだが」
「なんだ、アンタも竜胆狙い?」
チッとはすっぱな舌打ちをひびかせる女に、煉獄は怪訝に首をかしげた。
「竜胆?」
「名前も知らずに探してたのかい。あんたが探してんのは、最近流れてきた噂の男娼だろ? 吉原辺りで太夫も張れそうなシャンの立ちん坊がいるって、男どもが大騒ぎでさぁ。そりゃまぁ、ちらっと見たかぎりじゃ、たしかにきれいな子だったけどね」
立ちん坊なんてしているわりに擦れた様子がなくて、品がある。長く厚い睫毛を少し伏せて、ちろりと視線を投げる瞳は瑠璃の青。私娼風情には過ぎた金額を提示されても、たやすくうなずかず、声を聞いた者はほとんどいない。
「目の色と群れない様子が竜胆の花みたいだって、誰かが竜胆の君とか呼びだしたのさ」
面白くなさげな声で女が述べる男娼は、聞けば聞くほど冨岡だと思わざるを得ない。だが男娼とは。どうにも冨岡の為人(ひととなり)とはかけ離れていて、煉獄は戸惑わずにはいられなかった。
「立ちん坊がなにをえり好みしてんだか知らないけど、店への引き抜きや大枚ちらつかせる客にも、ちっともうなずきゃしないんだよ。それがまた男どもに火をつけるみたいでさぁ。このところ、竜胆を買うのにみんな躍起になってんのよ」
「……竜胆という人は、客を取らずにいるということか?」
それならばまだ、納得もいく。あくまでも街角に立ち鬼の気配を探っているだけなのだろう。
だが、知らず安堵した煉獄の内心を嘲笑うように、女は小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「そんなわけないだろ。男娼が客を取らないでどうすんのさ。おまんまの食い上げになっちまう。客の取り方が変だって言ってんの。質の良さげな上客にもうなずかないくせに、やっとうなずいてついてったかと思えば風采のあがらない男ばかりでさぁ。なんだかおどおどした奴ばっかりで、竜胆のほうが客よりもよっぽど堂々として見えるらしいよ。あんな男にうなずいておいて、なんで俺じゃ駄目なんだって、やけ酒食らう男どもがうるさいのなんのって。好みにうるさいっていうよりも、やけっぱちなんじゃないかとさえ思えるぐらいだって噂だよ? まぁ、ろくでもないゴロツキはしっかり避けてるって話だから、そうとばかりも言えないと思うけどね」
客ではないと断ったにもかかわらず、女の口はよく回る。この女も竜胆には興味津々なのかもしれない。
思った端から、女の表情が不意に変わった。煉獄を見つめる瞳は、獲物を狙う猫のようだ。
「ね、お兄さん。お兄さんみたいな男前じゃ、きっと竜胆はうなずきゃしないよ。内緒だけどね、通りでブロマイド売ってるような役者だって、竜胆にゃ袖にされてんのさ。あたしにしときなって。お兄さんなら安くしといてあげるからさ」
「いや、ありがたい申し出なのかもしれないが、俺には無用だ!」
するりと腕を絡ませて科を作ってみせる女に、あわてて再び断りを入れれば、女は鼻にしわを寄せまた舌打ちした。
「ったく、どいつもこいつも! お釜掘るのがそんなに楽しいかい! やってらんないよ!」
女の悪態に、煉獄の脳髄が一瞬カッと熱く燃えた。
今、こうしているあいだにも、竜胆――冨岡かもしれない男は、客を取っているかもしれないのだ。
あくまでも捜査だ。本当に身を任せることはないだろう。思いはするが逆に言えば、任務のためならば必要と思い定めることもあるのではないのか。
焦燥が身を焼いて、煉獄は我知らずギリッと奥歯を噛みしめた。
任務だとわかっていても、悋気が胸を焼く。そんな自分の未熟さに軽く息を吐き、煉獄は努めて笑んでみせた。
だがそれは、獰猛な獅子めいて見えたのだろう。ヒュッと息を呑んだ女は、いくぶん青ざめ口を閉ざした。
「いろいろと教えてくれて感謝する! ……俺が竜胆の客になれるかわからんが、ともかく探してみることにしよう」
「あ、あの、最近はあっちの通りに立つことが多いって聞いてるよ……」
より闇が濃い通りを指す女の指先は、かすかに震えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いくらか礼を渡して女と別れたあとも、竜胆という名の男娼と、清涼な水を思わせる冨岡とがどうしても結びつかず、自然、煉獄の眉間にしわが寄る。
本当に冨岡なのだろうか。任務ならば、男娼の真似事だろうと煉獄とて断る道理はない。男としての矜持など、無惨討伐の大願の前では些細なことだ。けれど。
冨岡のそんな姿は見たくはないな。
ふと浮かぶそんな言葉に、煉獄は不甲斐ないと嘆息した。
任務だというのに悋気を覚えるなど、柱として己はまだまだ未熟である証左だろう。それでもほかの男に触れられる冨岡を思い浮かべれば、どうしても眦はつり上がり、獰猛な炎が身の内から吹き上がるような心地がする。恋とは本当にままならぬものだ。己の心一つ、制御しきれない。煉獄がこぼした吐息は少しばかり苦かった。