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五月雨と君の冷たい手 前編

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 なんとはなし心の奥がほっこりと温かくなって、杏寿郎の唇がようやく、小さな弧を描いた。
 ホームルームまであと十分。カバンの持ち主である義勇はいまだ現れない。水泳部の部室はもう出ただろうか。時間的にみて、校舎に向かっている最中かもしれない。きっと、今日も従弟と一緒だ。
 従弟が在籍する水泳部の朝練にあわせて義勇は登校し、下校も水泳部と一緒だ。いつでも義勇は、従弟と行動をともにしている。
 全国的にも強豪として知られる水泳部は、学校側からの期待も大きい。部員はどの部活よりも多く、越境入学だってかなり多いと聞く。運動部員専用の寮も、寮生の大半は水泳部員だ。なんとなく肩身が狭いと、剣道部の先輩がぼやいていたのを杏寿郎は覚えている。

 義勇は、部には入っていない。けれども、水泳部の部室に入り浸るのを、学校側も黙認している。特別扱い。そんな言葉でやっかまれたりねたまれたりしている様子は、今のところない。きっと、持ち上がり組が多いこの学校では、義勇の事情をおおよそなりと知る者がほとんどだからだろう。

 義勇の行動が許されている理由の断片を杏寿郎が知ったのは、五月初旬――奇しくも杏寿郎の十三回目の誕生日にだった。
 お節介なクラスメイトが、義勇を案じる体で杏寿郎に釘を刺してきた、その日。一学年上の義勇が杏寿郎と同じ学年になった理由――義勇の家族が亡くなったことや、義勇が一時期心を病んで入院していたのを、杏寿郎は知った。
 けれどもそれだけだ。どこまでが事実で、どこまでが勝手な憶測なのかすら、杏寿郎にはわからない。ましてや義勇の胸のうちなど、到底知りようがなかった。
 あの日、義勇がそっと口にした言葉を、杏寿郎は今もって問えずにいる。聞き間違いだったらどんなに気が楽になるだろう。思っても、悲しい言葉は紛うことなく現実だと知らしめるように、杏寿郎のペンケースには、義勇が寄越したノートの切れ端が入ったままだ。
 現実を杏寿郎に突きつける白い紙片。たった一言が書かれただけの小さな紙切れは、人から見ればゴミだと思われてもおかしくない。それでも。思い返すたび胸が痛くなる文言だろうと、義勇がくれた言葉だから、杏寿郎は捨てられない。

『頭がおかしいのは、事実だから』

 なんで義勇は、あんな悲しいことを言ったのだろう。ずっと考えて頭から消えなかった疑問を、義勇自身に聞いてみようと杏寿郎が決意したのは、それから二週間近くも経ってだった。五月のとある晴れた日のことだ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 杏寿郎が決意を胸にいだいたその日は、快晴だった。雲ひとつない晴れた空は青く、爽やかな風が吹いていた。
 決心のきっかけなんて、とくにない。しいて言うなら、空がきれいに青かった。ただそれだけだ。
 きっかけはどうあれ決意は固く、杏寿郎はけっして引くつもりなどなかった。いつものようにホームルーム間際になって教室へと戻って来た義勇に、放課後に話をできないだろうかと告げた声は、我ながら緊張していたように思う。
 杏寿郎の真剣な顔から、なにがしか悟るものがあったのだろう。義勇は小さく息を呑んで、身を固くした様子で首を横に振った。
「時間は取らせないようにする。どうしても、君に聞きたいことがあるんだ」
「……俺は、話したいことなんてない」
 杏寿郎が話しかけてくれるのはうれしいと言ったその口で、義勇はそんなことを告げた。
 どんなにそっけなく無愛想であっても、義勇の青い海の瞳が杏寿郎を拒む色を見せたことなど、それまで一度もなかった。なのに、あのとき義勇の目は、あきらかに杏寿郎を立ち入らせまいとしているように見えた。
 泣きだしそうに潤んでいるようにも、触れるなと怒りに燃えているようにも感じられる、義勇の瞳。そんなふうに感じたのは、杏寿郎だけだったかもしれない。ほかの者が見れば、きっといつもと変わりなく、義勇の瞳はなにも映し出していないように感じられるばかりだろう。とらえがたく得体が知れないと敬遠する者も多い、暗く沈んだ瞳だ。
 けれどそんな様子であってさえ、義勇の瞳はやっぱり青く澄んでいた。深海を思わせる暗さをしていても、その青は、杏寿郎の目にはいつだって、なによりも美しく映る。

 聞かないで。言わせないで。そんな言葉が聞こえてくるような、悲しげな瞳であってもだ。

 義勇以外の人だったのならば、なぜだと強固に問いただすこともできただろう。いや、絶対にそうしたはずだ。けれども杏寿郎は、なにも言えなくなった。

 決心が鈍るなんて、生まれてはじめてだった。

 一度決めたことは、なにがあろうとやり抜く。たかだか十三年の人生であっても、一度としてその信条を覆したことがないのは、少なからず杏寿郎にとっては誇りであったというのに。
 なのに、どうしても、義勇を問いつめることはできなかった。そんなことしたくない。そう思ってしまった。
 だって、義勇にはいつでもやわらかく笑っていてほしいのだ。悲しい思いも、つらい思いも、してほしくはない。ましてや、ほかでもない自分が傷つけてしまうなど、言語道断だ。
 杏寿郎は、自分が問いただすことで義勇が泣いたのなら、涙を拭って笑わせてやるのだと思っていた。義勇が笑顔を取り戻すためなら、なんだってする。そう決意もしていた。
 断念せざるを得なかったのは、違うと思ったからだ。
 もちろん、知りたい気持ちは消えない。義勇のことならば、なんだって知りたい。けれども、そのために義勇の心を無理やりこじ開けるのは駄目だ。それは違う。そんなの本末転倒もいいところじゃないか。
 義勇の瞳がきれいなのは、義勇の心がきれいだからだ。どんなに悲しみに彩られていようとも、義勇の心はきっと、瞳と同じく澄んでいるからこそ美しい。自分が知りたい一心で、踏み荒らしていいはずがない。

 しょんぼりと眉を下げ黙り込んだ杏寿郎から、義勇の視線がぎこちなく外された。
 ホームルームが始まって、いつもと同じ一日が繰り返され、そうして、六月の末も近づいた今も、それは変わらずにいる。

 だが、あきらめたわけではない。義勇に以前のように笑ってほしい気持ちは、なにひとつ揺らいではいないのだ。
 焦るまい。杏寿郎は自身に強く言い聞かせる。繰り返し、何度でも。
 どんな長雨でも、いつかは晴れる。夜のあとには必ず朝がおとずれるように、冷たく降り続く雨もいつしかやんで、晴れた空が一面に広がるのだ。だからきっと。いつかは、きっと。
 思いながら見る窓の外は、雨が降っている。
 今日は義勇と少しぐらいは会話できるだろうか。ちょっとでいいから、笑ってくれたらいいのに。雨に濡れて風邪を引いたりしなければいい。
 願い、思うのは、義勇のことばかり。
 騒がしさを増していく教室に、義勇は、まだこない。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇