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五月雨と君の冷たい手 後編

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「義勇はなにかっていうと『杏寿郎は年下なのにすごく頼りがいがあって格好良かった』だの『杏寿郎はお日さまみたいに笑うんだ』だの、耳にタコができるぐらいに言ってたからなぁ。たった一回きり、それもほんの十数分話しただけなのに、ずいぶん気に入られてたぞ、杏寿郎?」
 からかうような錆兎の笑みに、杏寿郎の顔がカッと熱くなる。きっと頬も耳も真っ赤に染まっていることだろう。錆兎はますます愉快げに目を細めて、歓喜と羞恥にうろたえる杏寿郎を眺めていた。
「喜んでるところ水を差すようだが、最初のうちだけだぞ? 四月になるころには、おまえの名前を口にすることはほとんどなかったからな。……ま、バレンタインのたびに、杏寿郎は元気かなぁなんて言ってたから、忘れたことはなかったんだろうけど」
 笑い混じりの錆兎の言葉に、杏寿郎の肩から力が抜けた。知らず眉だって下がる。持ち上げられたかと思えば落とされて、感情の振り幅についていけない。
「ずいぶんと上げて下げてが激しいな。俺をからかっているのか?」
「ジェットコースター気分で楽しいだろ? 百面相してたぞ」
 いくぶん情けない心持ちで訴えても、錆兎は飄々としたものだ。快活な物言いや屈託のない笑みとは裏腹に、なんだかやけに人が悪い。錆兎の口から語られる義勇の言葉ひとつで感情が乱高下する杏寿郎の様子を、錆兎はあからさまに楽しんでいる。
「笑いごとではないのだが」
「そりゃ悪かった。話に聞くだけだった相手にようやく逢えたもんでな。ちょっと浮かれすぎた。おっと、無駄口叩いてるうちにずいぶん時間を食ったな。本題に入るか」

 思わず眉を寄せた杏寿郎に苦笑すると、錆兎は表情を改め、じっと杏寿郎を見つめてきた。
「事故について、義勇が自分から話すことは絶対にない。というかな、話せないんだ。義勇は、他人と関わるのを怖がってる。自分のことを疫病神だと思い込んでるんだ。杏寿郎を気に入っているからこそ、義勇は、杏寿郎には踏み込ませようとしないだろうな」
「疫病神……? なぜ! 義勇がそんなものであるはずがないだろう!」
 先ほどの羞恥とは異なる熱がカッと身を焼いて、杏寿郎は思わず激昂した。苛立ちが抑えられない。たとえ義勇本人からだろうと、そんな言葉で義勇を貶められるのはごめんだ。
 怒りを隠さない杏寿郎に、錆兎は静かに微笑みうなずいた。
「うん。俺も、うちの家族も――事故のことを知ってるやつはみんな、そんなこと絶対に思ってない。だけど、義勇には、届かなかった……どんなに言い聞かせても駄目だったんだ。義勇は、事故は自分のせいだと思ってるから」

 ザッと音を立てて風が吹いた。横殴りの風が杏寿郎の頬に雨を打ちつけてくる。だが杏寿郎の怒りが冷めたのは、冷たい雨粒などではなく、錆兎の言葉でだ。

「――なぜ、義勇のせいだと?」
 問う声は、無意識のうちに静かなささやきのようになった。大きな声でそれを問えば、ここにはいない義勇の耳に届いてしまう。そんな気がして。

 義勇自身が伝えまいとしていたことを、こんなふうに知ってしまうのには、ためらいがある。詮索するつもりなどないと言った己の口で、重ねて問う義勇の罪過――杏寿郎や錆兎が認めずとも、義勇はそう思っているはずだ――には、罪悪感を覚えもする。
 だが、聞かなければ後悔する。そんな気がするのだ。
 パタパタと、枝からしたたり落ちる水滴が傘を打つ音がひびく。杏寿郎の小さな声は、それでも雨音にかき消されることなく錆兎の耳に届いたのだろう。口を開いた錆兎が発した声も、どこかひそやかだった。
「……義勇も、水泳部だったんだ。小三のときからスイミングスクールに通いだしてさ、俺も同じところに入った。最初は遊び気分だったけど、小六になるころには、大会じゃいつも俺らふたりで優勝争いしてた。義勇は順位とかあんまり気にしたことないみたいだったけどな。俺と競うのは楽しいって言ってくれてたけど。義勇の泳ぎってきれいなんだよ。俺よりも義勇のほうがよっぽど水に愛されてるみたいだった」
 遠くを見るような錆兎の、灰色がかった藤色の瞳には、ほのかに恍惚とした気配があった。

 杏寿郎の脳裏に、青い海が広がる。義勇の瞳の色をした輝く海の波間で、花のように笑う義勇の姿が見えた気がした。

 もちろん、杏寿郎はそんな光景を見たことなど一度もない。けれどもそれは、いや、それこそが、義勇のあるべき場所であり光景なのだと思った。
 水のなかにいる義勇は、きっとたとえようもないほどにきれいだ。泳ぐ義勇を見たことがなくとも、わかる。絶対に誰よりもきれいだ。間違いなく言い切れる。
「スカウトもされたし、俺がもともとこの学校だったのもあって、中等部から義勇もここの寮に入ったんだ。すごい有望株が入ってきたって、コーチたちも浮かれてたなぁ。俺と義勇で、将来はダブルエースとか言われてたんだぞ? 期待と同時に、やっかまれたりねたまれたりすることも多かったけどな。だからこそ、初めての大会で絶対に好成績を残して、うっとうしい外野の減らず口をふさぐつもりだったんだ」
 錆兎の声はあくまでも静かだ。言葉は軽口めいているが、声は淡々として抑揚がない。
 もしかしたら錆兎も、感情を抑えなければ語ることができないのかもしれない。そんな気がする。
 杏寿郎の見解を裏づけるように、不意に錆兎の声がかすれて揺らいだ。

「けど……その日だ。義勇の両親と姉さんが、事故に遭って亡くなったのは」

 語られたのは、まだ十三になったばかりの杏寿郎にとっては重すぎる事実だ。たったひとつ違うだけの錆兎にとっても、いや、当事者のひとりだったぶん、錆兎の抱えた苦しさや悲しみはいっそう深いのだろう。冷静に語ることなどできないほどに。

 錆兎でさえそうなのだ。では、義勇が抱えたものは――?

 われ知らず息を詰め、杏寿郎は喉の奥からせり上がる不快な塊を、無理にも飲みくだした。
 眩い波間で笑う幼い義勇の顔が、杏寿郎の脳裏から消えていく。代わりに浮かび上がったのは、深海のように暗い瞳をした、感情表現に乏しい今の義勇の白い顔だ。理由を知った今、美しく整ったその顔は、どうしようもなく悲しい。締めつけられるような胸の痛みに、杏寿郎の眉間には深いしわが刻まれた。

「仲がいい家族だったんだ。義勇は姉ちゃんっ子で、蔦子姉ちゃんも義勇をすごくかわいがってた。寮に入ってからはなかなか逢えなかったから、義勇は初めての大会に張り切ってたよ。小さいころから聞きわけがよくて、わがままなんて言わないやつだったけど、今度の大会は絶対にみんなで応援に来てっておねだりしちゃったって、笑ってたな。……あの日も、雨だった」

 泣きたい。ふと杏寿郎は思った。けれど泣いてはいけないとも、思った。少なくとも、今はまだ。
 しとしとと、雨は降る。流すまいとこらえる杏寿郎の涙の代わりであるかのように、天から零れくる雨が、頭上に広がる桜の枝葉を伝って落ちては、パタリパタリと音立てて傘を打つ。
 錆兎もふくれ上がった感情を必死に抑えているのだろう。そっと目を閉じ黙り込んでいる。閉ざされた唇がかすかに震えていた。沈黙のなか、雨音だけが、やけにひびいて聞こえた。