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五月雨と君の冷たい手 後編

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 世界から切り取られたかのように静かな校舎裏で、ふたたびそっと吐き出された錆兎の声は、苦しげにかすれて杏寿郎の耳に届いた。

「誰が悪いってわけでもなかったんだって聞いた。しいて言うなら、コンビニ袋をポイ捨てしたやつが悪い。そんな事故だったんだよ。雨だったのもよくなかった。落ちてたコンビニ袋でスリップした自転車が車道に倒れ込んだのを、迫ってたトラックの運転手は必死に避けた。その先に、蔦子姉ちゃんたちが乗った車があった。完全な巻き込み事故だ。自転車に乗ってた人も、トラックの運転手も、もちろん、車を運転してた義勇の父さんも悪くない。亡くなったのは……義勇の家族だけだった。義勇も、俺も、大会には出られなかった。それから義勇はずっと、自分を責めてる。自分のせいだ、わがままを言った自分が事故の原因だ、全部、自分が疫病神だったからだって……今も、責め続けてる」
 錆兎の傘がわずかにかしいで、錆兎の瞳を隠す。白いシャツに包まれた肩が震えて見えた。
「あれからずっと、あいつが心から笑う顔を見ていない。あんなに泳ぐのが好きだったくせに、あんなに強くてきれいに泳いでたのに……今じゃもう、あいつはプールに近づくことすらできないんだ。俺じゃ……俺らじゃ、義勇を救ってやれないんだ」

 寒い。われ知らず杏寿郎はブルリと体を震わせた。六月の雨は少し肌寒くはある。けれども風が弱まった今、震えるほどでは決してないのに、やけに寒くてたまらなかった。怒りがふつりふつりと胸の奥にわく。炎のように燃え立つ怒りが胸を焼いて、そのくせ体はしんしんと冷えていった。
 誰を責めることもできぬ悲劇は、怒りの矛先をどこに向けたらいいのかわからない。ただ苦しかった。想像するよりほかない義勇の悲しみが、苦しさが、杏寿郎の体から熱を奪っていく。

 義勇のせいじゃないと、言ってやりたい。君はなにひとつ悪くないのだと、言い聞かせたい。けれどもきっと、杏寿郎がどんなに言いつのろうと、義勇の心にはなにも響くことはないのだろう。義勇の悲しみや苦しみに寄り添うことすら、できるかわからない。
 だって杏寿郎は知らないのだ。愛する家族を突然失う絶望も、笑みを忘れるほどの悲しみや罪の意識も。気持ちはわかるよなんて、誤魔化しは言えない。義勇にそんな嘘を伝えたくはない。
 それでも。

「……突然、泣き叫ぶことがあったと、聞いた。それで入院していたんだと」
「あぁ……ちょっと違うな。叫んだりはしてない。でも泣くんだ。唐突にポロポロ泣いて、ごめんなさいを繰り返して……誰がなにを言っても耳に入らない。俺でも、駄目だ。そばにいてやることしかできなかった。最初は、あいつも必死に我慢してたと思うんだ。クラスメイトや部のやつらに、大丈夫って笑い返してさ……馬鹿だよな。一番つらいのは義勇だったんだから、泣きわめいたって誰も責めないのに……。けど、叔父さんたちが亡くなってから初めてのプールの日に、あいつ、怯えて泣きじゃくったんだ。嫌だ、駄目だ、みんな死んじゃうって。そのときはどうにかなだめられて落ち着いたけど、それからだな。ふとした拍子にごめんなさいって泣くようになったのは。それからだんだん食事もままならなくなってきて、眠ることもできないみたいで……うちは共稼ぎだからさ、家で養生させてやりたくても見ていてやれるやつがいなかったんだよな。それで入院して……」
 綴られる言葉は独白めいていた。杏寿郎に向かって語っていると言うよりも、苦しくつらい日々の重しのような記憶を、問わず語りに削り落としているかのようにも見えた。
 その声が、ふとやわらかさを帯びた。
「やっと泣かなくなったのは、今年の二月に入ったころだ。義勇の誕生日の辺りだった」
 そうして錆兎は、静かに笑った。ほんの少し眉を下げた、慈しみとも、自戒ともとれる笑みだった。藤色の瞳が宿す光はやさしく、温かい。
「杏寿郎はどうしてるかなって、事故以来初めてちょっとだけ、笑ったんだ、あいつ。心配かけまいと無理して浮かべてた笑顔じゃなく、自然に、笑った。毎年、そうしてたように」

 あぁ、駄目だ。このままじゃ泣いてしまう。こらえていた涙がせり上がってくるのを感じる。目の奥が熱を持って、小さな子供のように泣きじゃくりたくなる。けれど杏寿郎は、グッと唇を噛んで耐えた。

 悲しいと、かわいそうだと、自分が泣いて義勇が救われるのなら、いくらでも泣こう。世界が自分の涙で埋まってすべてが海になるまで、泣いて、泣いて、干からびるまで泣き尽くしてやる。けれど、どれだけ自分が泣いたところで、義勇が救われることはないのだ。義勇はきっと、憐みなど求めてはいない。
 だというのに、自分が泣いてどうする。泣いたところでなにも変わらず、なにも変えてやれないのなら、己の不甲斐なさを涙で誤魔化すな。
 今はまだ、義勇の悲しみの一片ですら、心の底から共感してやれることはないのだろう。それはしかたのないことだ。自分はまだ絶望を知らない。自分にできるのは、真摯に想像することだけだ。義勇にかぎらず、人の心のすべてを理解することなど不可能なのだから、それぐらいしかできない。それでも。

 寄り添うことは、許されるだろうか。手を握ってやることは、叶うだろうか。義勇は……俺が傍にいることを、許してくれるだろうか。

 六月の雨は、肌寒さを伴ってしとしとと降る。いまだやむ気配はない。けれど、いつか必ず雨はあがる。雲の切れ間から光が差して、やがて、義勇の瞳のような青い空が眩しく広がるのだ。
 義勇の悲しみも、いつか晴れるだろうか。自分が晴らしてやるのだなどと、考えるのは厚かましい。そこまで自意識過剰な、恥知らずになどなりたくはない。

 だが、その日までそばにいてやることなら、自分にだってできるはずだ。許されるのなら――いや、そうじゃない。義勇に拒まれても、俺が離れたくないのだ。どんなに義勇がいらぬ世話だと怒ったとしても、大きな悲しみを抱えて背を向ける彼を、ひとりになどするものか。
 そして、なにかひとつだけでもいい。義勇のためにできることがあるのなら、どんな困難なことでもしたい。せずにはいられない。
 だって、大好きなのだ。今までも、今も、これからも。
 義勇の穏やかで控えめな、小さな白い花のように愛らしい笑みが、心の底から好きなのだ。

「なぜ、俺に話す気に?」
「俺じゃ駄目だったって言ったろ? ――俺や、うちの家族じゃ、無理なんだ。泣く義勇の隣で、笑ってやることはできない。同じ悲しみに溺れる。なぁ、知ってるか? 水難者を救助するときは、抱きつかれたら駄目なんだ。一緒に溺れることになる。……距離が近すぎたら駄目ってこともあるんだよ」
 杏寿郎はまだ、義勇にとっては他人だ。少しだけ盛ってもいいのなら、せいぜい友人。好意はあっても、心の距離はまだ錆兎ほどには近くはない。けれども、だからこそ救いになるのだと錆兎は言う。
 距離の差は少し寂しい。口惜しくもある。だが、それこそが義勇を救うことになるのなら、それにかけてみよう。そしていつかは、もっと近く、肩寄せあって笑うのだ。義勇とふたりで。
 決意が胸に大きく強い火を灯す。この火が絶えることは、きっとない。