五月雨と君の冷たい手 後編
「あぁ、しまった。もうこんな時間か」
「錆兎」
錆兎が腕時計に視線をやったのと同時に、小さな声が聞こえて、杏寿郎と錆兎はハッと顔を見あわせた。
聞き間違えるはずもない。振り返り見れば、校舎の影から顔を出したのは、案の定義勇だった。
「……杏寿郎?」
なぜふたりが一緒にいるのか訝しんでいるのだろう。傘の下で義勇の顔は、わずかに眉がひそめられていた。
「探しに来てくれたのか」
「委員会は終わってるはずなのに錆兎が来ないって、部長が言いに来た」
立ちすくむ杏寿郎の傍らをすり抜けるように走り寄り、義勇の隣に錆兎が立つのを、杏寿郎は無言で見つめた。
わきあがる様々な感情は、まだなにひとつ言葉にはならない。
「そうか、ありがとな。なぁ、俺が部活終えるまで、杏寿郎に一緒にいてもらえよ。雨の日嫌いだろ?」
錆兎の最後の一言は、ずいぶんとやさしいひびきをしていた。だが、ドキリと高揚したのは杏寿郎だけだったのだろう。義勇はますます眉をひそめてしまっている。
「……迷惑だ」
「えっ!?」
小さな声に思わず杏寿郎は声をあげた。そばにいてやるのだと心に誓ったその矢先に、迷惑だなどと言われてしまうとは。嫌がられたところで、諦める気はないけれども。それでも悲しいことに違いはない。
ショックを隠せずにいる杏寿郎を見やり、錆兎がクツクツと笑った。
「杏寿郎は迷惑なんかじゃないってさ」
「錆兎になんでそんなことがわかるんだ」
聞こえる会話に、ん? と杏寿郎は首をかしげた。傘の影で義勇の顔はよく見えないが、声は少し拗ねているようにも聞こえる。
「義勇は、俺のことが迷惑なんじゃないのか?」
「なんで?」
耐えきれず声をかければ、義勇はいかにも心外といった顔した。
「義勇は言葉が足りないからな。杏寿郎、義勇の言葉から真意を悟るのは慣れだぞ、慣れ。ちびっ子の話を聞く気持ちで、焦らず怒らず聞くのがコツだ」
「……チビじゃない。錆兎よりは、少し低いけど……健康診断じゃ杏寿郎より三センチ高かった」
わかったわかったと笑いながら、義勇の頭を撫でる錆兎の姿に、杏寿郎の胸がチリッと痛む。義勇も常の無表情とは違い、なんとはなし甘えを露わにふてくされているようにも見えた。
なんだかおもしろくない。そんな言葉が浮かんだそばから、自分の狭量さに忸怩として、杏寿郎は少し落ち込んだ。
「いいか、ひとりでいるんじゃないぞ。なんだったら、杏寿郎と一緒に先に帰ってもいいからな」
「錆兎っ」
笑って去って行く錆兎を追いかけようとしたものか、義勇もあわてたように踵を返す。杏寿郎はとっさに義勇の腕をつかみ引きとめた。考えなしに腕を伸ばしてしまったものだから、持っていたカバンがバシャリと音を立てて地面に落ちる。
「あ……」
「一緒にいよう! 迷惑なんかであるものか! 俺はもっと君と一緒にいたい! 錆兎に言われたからじゃなく、俺が、君と一緒にいたいのだ。すまない、義勇。君に拒まれても、これだけは譲れん」
義勇の腕をつかんだまま急いた声で言いつのった杏寿郎に、義勇は、束の間困惑したように視線を泳がせた。だが、やがてこくりとうなずくと身をかがめ、杏寿郎のカバンを拾い上げてくれた。
「汚れた」
「あ、あぁ、これぐらい大丈夫だっ! タオルを持ってきている。すぐに拭けば染みにはならんだろう!」
許されたうれしさに、杏寿郎の声は弾んだ。雨の当たらないところに行こうと、義勇の腕をつかんだまま歩き出す。
「……部室、カバン置きっぱなしだ」
「あぁ、義勇のカバンか。だが、水泳部の部室に部外者の俺が入るのはまずいんじゃないのか?」
「たぶん……大丈夫だと思う。錆兎が言っておいてくれると思うから」
疑いなどかけらもない声に、また胸がチクリと痛んで、杏寿郎の手に知らず力がこもる。
小さく息を詰めた義勇に気づき、あわてて杏寿郎は手を離した。近くに見えた非常口を指差し言う。
「あそこなら庇があるから雨はしのげるだろう」
胸の奥のざわめきを知られたくなくてせわしなく言えば、義勇は少し怪訝そうに小首をかしげたものの、幼い仕草でうなずいてくれた。
コンクリートの三和土に並んで腰を下ろす。狭いスペースは、くっつきあわないと座れない。肩が触れあう距離は入学してから初めてだ。初めて逢ったあの日の距離に、今ようやく、自分と義勇はいる。深い感慨にトクリトクリと杏寿郎の胸は甘く高鳴った。
畳んだ傘を並べて壁に立てかけて、なんとはなし、ふたりそろって空を見上げる。
「カバン……拭かないのか?」
「おぉ、そうだな。うっかりするところだった。ありがとう、義勇!」
差し出されたカバンを受け取り笑いかけても、義勇はいつもの無表情だ。けれどいつもよりもほんの少し、杏寿郎を見る眼差しがやわらかいような気がする。
「……あ」
「ん? あぁ、この本か」
杏寿郎がカバンからタオルを取り出すのを見ていた義勇が、かすかに声をあげた。視線の先はビニール袋に包まれた文庫本だ。
「持ち歩いてるのか?」
「無論だ! 義勇がいつ返してほしくなってもいいようにな!」
それに、義勇の持ち物が身近にあるのは、なんだかこそばゆいようなうれしさを感じるのだ。さすがに、そんなことは少々気恥ずかしくて、言えなかったけれども。
「もう読めないから、いいのに」
「読めない?」
読まないではなく読めないとは、どういう意味だろう。問い返した杏寿郎に、義勇は一瞬、しまったと言いたげな目をして、視線をそらせた。じっと見つめたまま答えを待っていると、諦めたように義勇の唇が小さく言葉をつむいだ。
「……その本を開くと、手が」
「手?」
ポツリとこぼれた義勇の声は平坦で、抑揚がなかった。思わず視線をやった手は白く、小刻みに震えている。
「義勇?」
「手が……冷たくなって、動かなく、なる」
震えているのは手だけではなく、呟く唇もいつしかおののくように震えていた。
寒いのだろうか。でも、こんな突然に? 様子がおかしい。
不安になって本をしまい込むと、杏寿郎は、気遣わしく義勇の顔をのぞき込んだ。義勇の瞳は、先までとは違って虚空を見つめ、なにも映すまいとしているようにも見えた。
「姉さんと行った古本屋で、姉さんが買ってくれた……。杏寿郎と逢った日に、あの商店街で。次の日は、俺の誕生日だったから」
「誕生日プレゼントだったのか。それならなおさら、義勇が持っていたほうがいいだろう?」
責めるつもりなどかけらもなかった。だが義勇は苦しげに眉を寄せ、フルフルと首を振る。
「ごめん……杏寿郎」
「なぜ謝るんだ? 義勇が詫びることなどなにもないぞ」
「持ってると……思い出すから、読めない。そのくせ、捨てることも、誰かにあげることも、できなかった。杏寿郎に押しつけた。ごめん」
「……そうか、これは義勇が好きな本ではなかったのか。しかし、面白かったからな! 問題はない!」
残念だと思わないわけではないが、怒りなどない。持っていることさえつらいのなら、助けになれて幸いだとすら思うのに、義勇は小さく首を振りつづけた。
「好き、だった。でも、手が、冷たくなる」
ゆるゆると義勇の手が持ち上がった。震える手に義勇の眼差しが落ちる。
作品名:五月雨と君の冷たい手 後編 作家名:オバ/OBA