今モ誰カガ教エテル
何が起こったのかは、その時は全然わからなかった。居眠りしていたわけだから、悪い夢でも見ていたのかとも考えた。でも、そんなわけはない。起きているし、憶えているし。そのまま私はまた普通の生活を始めるのだから。
でも夢じゃないのなら、それは全くわけがわからなかった。世にも奇妙な物語の、リアル版。本当に意味不明なの。
教室でみんなが無視していたし。
私は二十歳じゃないし。
あいつは誰かわからないし。
またその深刻さに気が付いた後は、もう、パニックよりも大変だった。
3
岩本蓮加(いわもとれんか)はスマートフォンをポケットに入れてから、玄関で靴を履いた。つま先の方が少し黒ずんでいるが、気にしない。
玄関のドアを開く前にあげる『行ってきまーす』は、教室に入ってからの『起立、礼、着席』と同じように、既に生活に組み込まれた常連さんになっていた。
晴れ晴れとした外の陽気。マンションの通路から下を覗き込んで、友人達の数を頭の中で数えた。今日は三人いる。一人は、梅。彼女は中学校からの親友で、中学の時に『みなみん』という下の名前から取ったニックネームが作られている。しかし、蓮加と共に進学すると、いつの間にか彼女は梅澤美波(うめざわみなみ)という名前から『梅』と呼ばれていた。
マンションのエレベーターの中に、他の学校の制服を着ている顔見知りのお兄さんが乗り込んできたので、蓮加は一度、下に集まった友人への思考を中断させた。どうにも、このエレベーターという閉鎖空間が気まずいのである。もう、マンションに引っ越してきてから何年も使用しているにもかかわらず、この不要な緊張はなくならない。
F1に到着して、エレベーターを出た後は、また、残りの二人の事を考えながら、顔見知りのお兄さんの後について歩いた。マンションの為、駅までの最初の路のりが同じであり、更に言うならば、友人達が待つ駐車場の出入り口からしか、マンションの敷地を出る路がない。途中まではストーカーばりについて行くしかないのだ。
蓮加は駐車場に入りながら、遠くに見えた三人の姿を確認する。
普段ならば、そこには梅と珠美(たまみ)が待っている。『珠美』とは、高校で仲良くなった阪口珠美(さかぐちたまみ)の事である。しかし、珠美は何処からでも一目でわかる金髪なので、今日は迎えに来ていない。珠美はよく学校を休むのだ。そんな時は、決まって梅が一人で蓮加を迎えに来る。
だからこそ、蓮加は残りの二人に頭を悩ませていた。
「おはよー」
遠くから梅が蓮加に言った。
蓮加はそれに答えずに、眼を凝らして梅の隣を凝視する。
そのまま梅の隣に歩み寄ると、梅は通常通り、ごく自然に蓮加に接した。
「五分も遅刻だよ」
「あごめんなさーい」
梅はいつも通りで、機嫌は良くも悪くもない。
蓮加は、とりあえずで、横の二人にも挨拶をした。
「おはよう」
「おっはよ」
「おはよ~」
元気のいい声が気持ちよく返ってきた後は、そのまま四人で駅へと向かった。
この日から新しく投稿組に加わった仲間は、二人。
一人は三年C組の佐藤楓(さとうかえで)だった。下の名前の『楓』の『で』を弄んだ呼び名として、彼女が『でんじろう』と親しい周囲から呼ばれている事だけを、蓮加は知っていた。
もう一人は、これまた三年C組の久保史緒里(くぼしおり)であった。彼女も親しい周囲から『久保ちゃん』と呼ばれている事を知っているが、蓮加は彼女の事を『史緒里』と呼んでいた。
電車に揺られながら、蓮加達は学校の話をする。今日は身体測定のある日であった。
「ねえ、朝ごはん食べてきた?」
蓮加はきく。この朝食で、蓮加は五分間の遅刻を要したのである。結局、最後まで迷いぬいた挙句、最終的に食事を取ってしまったが……。
「蓮加は?」
「食べちった」
「私食べてない」
梅がそう言うと、続いて楓も史緒里も『食べてない』と苦笑した。
兎(と)にも角(かく)にも、岩本蓮加の登校仲間はこの日をもって、学校を休んでいるだろう珠美を入れて、三人から五人に増えたわけであった。
三年E組に到着した後は、意外にも珠美が蓮加と梅を迎えた。家に居ると朝食を取ってしまいそうになるので、先に登校したらしい。
「電話しろよ」蓮加はけらけらと笑った。「せめてラインしろよ」
「鬼お腹へっちゃってさー……」珠美は死人のような顔つきで、生気を失いつつある。「携帯なんか忘れて来たよねー……。ていうか、やっぱ帰ってご飯食べてからまた来るわ」
「はあ~?」リアクションが激しいのは梅。この時の曇った表情がなんか印象的だ。「マジで言ってんのあんた?」
「マジ……」
「ほら~。ね。そうなると思ったも~ん。れんか食べて来てよかった。あっはっは」
三時間目が始まると同時に、その身体測定は始まった。
クラスの男子は先に体育館に向かっている。体育館に仮設された医務設備で身体測定をするらしい。女子はこのままA組からM組までが、順番に一年生から三年生の校舎全ての保健室を使って身体測定をする事になっていた。蓮加達三人が所席するE組は、二年生の校舎にある保健室からの開始であった。
二列になって廊下を静かに移動しながら、やはりの雑談である。
くだらない事を口走るのは、いつも梅だった。
「変態オヤジだったらどうする?」
「殴る」蓮加は即答した。「え、男の医者なの?」
「おっさんでしょ~どうせ。去年もおっさんだったじゃんか」梅は嫌そうに言った。「あ~、聴診器でつっつかれんのか~、やだな~」
蓮加はそれを想像して、恐怖した。横を見てみると、梅も珠美も、やはり同じような表情を浮かべていた。
全てのカリキュラムを終了としたのは、昼休みの五分前であった。休み時間も返上しての身体測定は非常に混雑を極め、難航した。しかし終わった後は極楽気分であった。心配していた体重は一年前とそんなに変わらず、身長だけが1・5センチも伸びていた。
それに、何を気にする事なく、昼飯にかぶりつく事ができる。
「メッシだ~~!」蓮加を叫んだ。
「学食~~っ!」珠美も叫ぶ。
「食いまくるぞ~~っ!」梅も叫んだ。
学食は大変に混雑していた……。
朝に朝食という欲望を抑えた為、腹の虫が暴れ回っている。しかし、食べてさえいない梅と珠美は、既に死人を超えてミイラ化を始めそうであった。
「おお…鬼ヤバい……、逆にお腹が普通になってきた……」金髪のミイラは萎(しぼ)んだ唇を強引に動かしている。「お? これ、たまみ死にそうだぞ……」
「早くしろぉ……」一方こちらでは、梅が前に並んでいる一年生を、部外的に苛(いじ)めている。一年生の背中に囁いているのだ。「胃袋がとけるだろぉがー……」
五分後に手に入れた食事は、蓮加から、梅、珠美まで、焼肉定食大盛り、焼肉定食大盛り、焼肉定食大盛り、となっていた。
「食べるぞ~~っ!」蓮加は叫んだ。
「食うぞ馬鹿やろ~~っ!」珠美も無我夢中で食事を見つめながら叫んだ。
「むんぐっ……うんぐっ」梅はもう食べている。