今モ誰カガ教エテル
「また~?」と梅は大袈裟に顔を驚かせる。「あんた、小食の癖に、いっつも腹減った~腹減った~言うねえ」
「太らないからいいよねー、蓮加って。たまみ普通に食べるとヤバいかも」
珠美の言葉には、訂正しないで、お腹を、ポン、と叩いた。そしたら、史緒里と楓が笑った。
「今日も朝ご飯食べて来てないの?」楓が私にきいた。
「ううん、食べた」
「これで太らないからな~、鬼だ」珠美がそう悪態をつく。「ダンスかね? やっぱり」
「あ~、筋肉痛、体育うざい」
「お。やる気満々ですか」梅が笑う。
「日野君なんて、体育一回も出てないのにね」
楓が笑って、史緒里がそう言った。
「ひの君?」
私と梅が、ほとんど同時にそうきいた。すると、楓がすぐに人差し指を口元に立てて、し~、とやって、『あそこの席に、寝ている人いるでしょう? あの人』と小声で言った。
それは俗にいう、オタクっぽい人だった。髪がやたらと長くて、窓際の席に伏せって窓の外を眺めている。
「日野君は休み時間もああやってるの。お昼ご飯も食べに行かないんだよ」史緒里が私達に教えてくれた。遠くの日野君を見ながら、心配そうに顔をしかめている。「お腹へらないのかなぁ……」
「私と真逆だわ」梅が笑っていた。
「少しは見習えって、梅さんよー」珠美も笑っていた。
楓も史緒里も楽しそうに笑っている。
ただ、私はなぜかその時、忘れていた、あの事を考えていた。不意にこちらを向いた日野君に、やべ、と珠美達が声を呟きながら焦っている。それでも、私はずっとそっちの方を見ていた。
急に、頭の中を、またあいつで埋めようとしていた。
「ヤバっ、日野君来るじゃん」
珠美の声がそう聞こえて、そのまま四人は黙り込んで声を殺していた。
少しだけ、机から歩き始めた日野君を見てみると、彼はただ、真っ直ぐにその教室から退出していった。
「おお~、びびった~」珠美は明るい声を復活させていた。「日野君こえ~」
「怒ったかと思ったよね」梅も楽しそうだった。
「顔が骸骨みたいだからさ、怒ってるのかどうなのかわっからない。鬼笑える」
「あっはは」
梅も楓も文雄里も、珠美の発言にご機嫌で笑っていた。
もう、駄目だった……。私には、その思考しか浮かばない。横でにぎやかにしている四人の声が、どんどん耳から遠ざかっている。
「蓮加ぁ?」
「何、どした?」
「蓮加?」
意識が統合されて……、そこだけにしか意識が行かない。四人の声は、眼の前の景色に完全に消えていた。
私は、たった今席を立っていった、その日野君の席を眺めている……。
精確に言うと、その……、一つ手前の席。
そこで、机にスマートフォンを載せて、ワイヤレスイヤホンを耳に、眼を瞑って音楽を聴いている、男子生徒……。
「おーい蓮加ぁ?」
「おいどうしたぁ?」
私は驚愕に打ち震えていた……。
そう、それは間違いなく、あいつの、姿だった……。
7
下校途中で、あいつの名前が藤堂義巳(とうどうよしみ)という事を知った。あまり学校に顔を出さない、性格の暗いバンドマンとの事だった。
その日の授業は、居眠りをする必要がなかった。もう、頭の中はハートでいっぱい。というのは嘘で、本当は興奮と疑問でいっぱいだった。
下校は、最後まで五人が一緒だった。途中で立ち寄った地元駅の最寄りのゲームセンターでプリクラを五枚撮って、ハサミがね~よ、と梅が危なく暴れるところだった。珠美が途中で転んだ時は、まずそれを知っている私と梅が冷汗をかいた。以前、仲良くなったばかりの時に、体育の授業で珠美が転び、大声で泣いたのだ。でも、今日の珠美は、絆創膏(ばんそうこう)持ってる? とすぐに立ち直っていた。顔は、少しヤバそうだったけど、史緒里が素早く絆創膏を探し始めると、こんなところに自転車置くなよ、鬼邪魔、と転んだ原因の自転車を蹴っ飛ばしていた。
またまた立ち寄った薬局でハサミを借りると、私達はプリクラを五等分して、そこでバラけた。梅と史緒里はカラオケで、珠美と楓はCDショップに行くらしい。私はこれからダンスレッスンがあると、四人にはそう伝えた。
一人になれば、自然と考える事があった。でも、具体的に何を考えるという事はない。頭に浮かぶのは沈黙と、驚愕と、興奮という、ただそれだけの無色な感情だけだった。
そして、絶対の自信をもって通ったそのガードレールの十字路に、そいつの姿はなかった……。
いないのぉ? と心で何度もそんな類の言葉を浮かべた。うしろも振り返ってみた。横も、遠くも、四方八方よく確認してみた。けど、やはりそいつの姿はなかった。
路を駅の方面へと引き返しながら、スマートフォンで、珠美達と合流しようと思ったその時、私は脚を止めた。
スマートフォンを耳に張り付けたまま、私はその方角をよく見てしまう。眼を大きく見開いてしまっているのが、自分でも手に取るようにわかった。
チカチカと、その姿を明滅させている女の人が、こっちに向かって歩いてくる……。
背中を大きな氷でなで上げられるような、瞬発的な悪寒に襲われた。通話ボタンを押せないままで、私はその眼を逸らす……。スマートフォンを耳に張り付けたまま、私はすぐに身を翻(ひるがえ)してしまっていた。
うしろに歩き始めてから、しまった、と思った。背中に、体験した事のない物凄い恐怖の塊がある。どうしてか、一瞬の恐怖に、私はいかにも見えているような、怪しい行動を取ってしまっていた。
うしろを振り返る事さえできない……。あれは……、幽霊だった。
あいつの言葉が頭の中で反芻(はんすう)していた。息を殺すかのように早めに歩いて、泣き出しそうな気持を必死に隠す。どうしても、振り返れない首元には力が入ってしまう。
何色のどんな服を着ていたのか、もう思い出せない……。ただ、髪は短くて、細身の女性。奇妙な動作で……、凄い大股で道路の真ん中を歩いていた。
怖い……。どうしようもなく、ただ怖い……。今すぐに、ここから走り去ってしまいたい。
そう思った私は、もう無我夢中になって、走り始めていた――。駅の方向とは逆で、家に向かって走っていると気付き、すぐに住宅街の路地を曲がりくねって駅の方向へと思い切り脚を走らせた。
何が何だか自分でもわからない。幽霊に対して何かの演技でもしているのか、私は一瞬たりともうしろを振り返る事ができない。眼に映る道路と壁、それらの景色を次々に塗り替えていって、限界の速度で脚を虐めぬいた……。
駅の構内に到着した時、私は爆発しそうな心臓をほったらかして、肺いっぱいで呼吸を整えながら、人を探すという大袈裟な演技をしながら、うしろも一気に振り返って確認した。
そこには、幽霊の姿はなかった――。ただ、思っていたよりも、駅が少しだけ汚く見える。それだけだった。改札口、切符の購入場所、駅員の窓口、どれも変わらない景色に見える。駅の構内を歩いている人達、止まっている人達、何も変わっていない。
けど、呼吸が落ち着いた頃、私はそこが、確実に違う世界なのだと、身に沁(し)みるように痛感していた……。
結局、誰にも電話する事なく、私は一時間ほどCDショップで時間を潰して、帰路に着いた。