今モ誰カガ教エテル
自宅に着いた後はもう、異常に落ち込んだその気持ちを復活させる事はできなかった。
幽霊は、この世に存在する――。あいつの言葉が、全て実話なのだと、事態の重大さを何度も頭が勝手に理解する。
うっそつきー……。
無性に腹が立った。普通に生活できると仄(ほの)めかしたあいつは、あの藤堂義巳は、私に嘘をついたじゃないか……。幽霊から逃げる事の、どこが普通なんだよ、と私はその不安な頼りない気持ちを、泣く事も出来ずにただただ持て余していた。
夕食にほくほくのハンバーグが登場しても、私は感動すらできない。家族の囲んでいるテーブルの天井に、あの大股女は張り付いていないか……。ベランダの外から、こっちを覗いている血だらけの男はいないか……。私はそんな事ばかりを考えている。
「食べないの?」
「あ、……食べます」
お母さんにそう言われて、ようやく食べ始める事ができた。私はその夜、ハンバーグを初めて美味しくなく感じた。
なかなか部屋には帰れなかった。そして、大変だったのはお風呂。でも体育があって入らないわけにはいかなくて、お母さんとお兄ちゃんをお風呂の前まで引っ張って来て、私は大声で会話をしながら、なんとか五分間の短いシャワーを完了させた。
「なんで今頃そんな事言うんだよ」
お兄ちゃんは私がお風呂から出た後も怒っていた。昔にあげた漫画本を、今すぐに返せと無理を言って、できないならお風呂の前で立ってろと、私はお兄ちゃんを何とかここに引っ張って来ていたからだ。
「言っとくけど、一円もねえぞ」
私の用はもう済んでいる。心では抱きつきたいくらいに、お兄ちゃんに感謝していた。
「ごめん……、じゃあ、いいや。なんか無理言ってごめんね」
「いやびびったわ……」
タオルでごしごしやっていると、すぐにまた悪寒が走ったので、私はお兄ちゃんの背中まで走った。
「もう全部捨てちゃった?」
「何だよ、なら俺の部屋に行って、勝手に取れよ」
「いいよ、もう」
「何なんだよ、お前は!」
嫌われて、叱られて、一人にされてしまった。仕方なく、私は部屋に戻る事にした。体育以外でも夢中で走ったので、もうすぐにでも寝れる気がしている。シャワーが良い効果になったのかもしれない。
部屋に帰ると、やはり恐怖は倍増した。尽きる事のない幽霊への恐怖は、疑心暗鬼の比ではない。私の頭の中は、明日、あいつに文句を言う事でいっぱいになっていた。
運がいい事に、瞼(まぶた)がもう閉じそうだったので、そのまま電気をつけたままで、私は目覚しをセットする事なく、ベッドに潜り込んだ。一瞬、布団の中から女の幽霊が顔を覗き出すという恐ろしい妄想をして『お兄ちゃ~~ん!』と叫んだのだけど、すぐに『自分で取りに来ぉい!』と何やらを勘違いされ怒鳴り返されてしまった。
そのまま、怯えた声をすすって、私は部屋の中を見回す。煌々(こうこう)と照らされている部屋の中は、テレビがつけっぱなしになっている事も手伝って、非常に明るい雰囲気だった。
テレビのリモコンは床に置いたままになっていたのだけど、幸運な事に、現在テレビに映し出されている映像に、バナナマンが出ていたので、ベッドを降りなくても済んだ。
そのまま、私はバナナマンの底無しのハイセンスに笑いながら、少しずつ、尊い眠りの中へと落ちていった……。
こんなにも明日の朝を強く求めたのは、世界が変わってからも、初めての事だった。
8
平和だったのは、朝ご飯を食べ終わって、前髪にスプレーをかけまくっている時までだった。
「おっはよ~う。二分の遅刻だぞ~君ぃ~」
「鬼眠い、おはよ」
「おはよう」
「おはよー」
「じゃーん……。はぁ、おはようございあす」
電車に乗って、私のテンションは更に落ちた。無意識に、昨日の大股女を探している。
「蓮加さぁ、最近なんか、付き合い悪い」珠美が言った。
確かに、ここ最近の私は付き合いが悪い。でも、それどこじゃないのだ。世界が変わったのだと、素直に言い訳をしたい。けど、それはまだ怖くて、無理だった。
「恋だな、きっさまぁ……」
「何ぃ!」
珠美の声に、梅までもが激しく反応した。でも、普段は面倒くさいこの連鎖反応は、今は何よりも強いバリアーになった。
「は~? 恋ぃ?」私は横目で、髪の毛の短い社会人女性を一瞥してから、手首を振った。「してないしてない……」
「あ。わかった」
「なに?」
今度は史緒里の声に、楓が反応した。史緒里は満員電車にぎゅうぎゅうに潰された肩をそのままに、顔だけを可愛く微笑ませて、藤堂君でしょう、と言った。」
「はぁい?」
あまりの図星だった為に、返答というか、反応が可笑しくなってしまった
「あ~この子、図星だこのやろっ!」梅が周囲を気にしないで騒ぎ立てる。「おいいつの間にぃ~!」
「はー知らないよ!」
とは言いながら、本音にもかかわらず、顔がにやけてしまった。
「でたでた」珠美が小さく呟く。「あのバンド君か」
「ちっがう」と言って、すぐそばの楓の顔をにやけたままで見る。「違う……よ?」
「ははぁん」
と楓に笑われ、史緒里には、あ、絶対そうだ、と確信されてしまった。
学校の教室に到着した後は、すぐにでもC組に行こうと計画していたにもかかわらず、後にする事にした。学校は、意外にも心強い。家で焦っていた気持ちが、不思議とここでは全くだった。
待っていたのは二時間目と三時間目の間にある、あの二十分休みだった。
「先にC組に行ってくるわ」と言いながら、私はなぜかにやけている。
二人から返される返答が、もう想像できるからだろう。
「へいへい」梅は意味深ににやける。
「燃えてるね~」珠美もにやけていた。
想像通り、私は、はぁ? とか言いながら、にやけて廊下を歩く羽目になったのだった。
すぐに到着したC組の教室は、やはり想像していた通り、扉が頑なに閉まっていた。けど、もうこんな閉鎖空間の打開なんて、私には屁でもない。
ガララララララ――と昨日よりも更に派手に扉を開いた。すぐに手を上げた楓と史緒里に、片手を上げてから、気持ちを入れ直して、真っ直ぐに、私はその不愛想な奴の机に歩み寄った。
眼の前で仁王立ちして、そいつを睨みつける。
信じられない事に、昨日、あの死ぬほど怖い幽霊体験をしておきながら、私の心臓は、昨日の幽霊体験とさほど変わらない速さで鼓動を打っていた。
「ちょっと……、何ですか?」
前髪が眼にかかったまま、そいつは、藤堂義巳(とうどうよしみ)は、その細くて感情のない眼を、私のお腹辺りに向けていた。
中途半端に向けた視線に、妙に他人行儀な話し方。その以前とは全く違う対応に、私はすぐに躊躇(ちゅうちょ)していた。
ただただ、心臓だけが激しく鳴り響いている……。
蓮加? と、楓と史緒里の声が聞こえた時、教室中が私に注目しているのだと、ようやく気付けた。
ガラガラガラ――と、一瞬の私の呆然を掻き消すかのように、藤堂義巳は椅子から立ち上がった。
「何ですか……、あんた」
そう呟いて、そいつは迷惑そうに教室から退出してしまった。取り残された私は、すぐに梅と珠美の声に助けられた。
「なに……、何が起こったわけ…?」