忘れないをポケットに。
「財宝とお姫様、二つじゃねえか。欲望……」磯野は稲見を睨む。「それが両立できねえって?」
「どちらかが、おそらく疎(おろそ)かになる」稲見は眼を瞑って囁いた。「俺は未成年の時、夕と出逢って、出世する楽しみを覚えた……。それに夢中になって、それから愛犬のジャッキーにあまりかまってやらなくなった……。お姫様と言えば俺にとってお姫様中のお姫様だったよ、ジャッキーは」
「日奈子はチップの事、絶対忘れないよ」日奈子は稲見に言った。「忘れた事ない。ていうか忘れるはずがない」
「そうだね。きいちゃんのそれは、本物だ」稲見は日奈子に頷いた。
「出世を覚えて、愛犬への愛情が手薄になったのか……」天野川はポッキーを食べながら囁いた。
「でもそれって、仕方がない事ですわよね……。ジャッキーさんを想う気持ちが減ったわけではないですし」咲希は呟いた。
「何かに夢中になるのって、怖いわね」兎亜は飛鳥を一瞥する。「あたいも怖いぐらい推しが素敵すぎるんですけど」
「今はどうなんだよ……」磯野は稲見に言う。「ファースト・コンタクトに入社して、出世街道まっしぐらなんだろ? 乃木坂に対して、怠慢(たいまん)なんかよ?」
「いや」稲見は答える。「企業を大きく羽ばたかせる為の揚力(ようりょく)を、乃木坂がくれる」
「波平、イナッチにとってファーコンは財宝じゃないんだよ」夕は磯野に言った。「ファーコンは使命なんだ。人生だよ。それを生き抜いていく動力を、乃木坂がくれてるんだ。お姫様と財宝の関係じゃない」
「お前はどうなんだよ」磯野は夕を睨んだ。「お姫様なんだろ?」
「そうだとも」夕は頷いた。それから飛鳥と日奈子を一瞥する。「ねー!」
「ねー、ふふん」日奈子は鼻を鳴らして笑った。
齋藤飛鳥は無表情でコーヒーを飲んでいる。
「会社と乃木坂、両立できんのか?」磯野は夕に言った。
「してんじゃん、だって」夕は嫌そうに言う。「見てるでしょう、あんたも……。両立って言葉は似合わんけどな、働く意欲に乃木坂が拍車かけてくれんのは事実だよ」
「宝島を発見した頃、島に置いてきたお姫様は誰かのものになってると言ってるんだよ、コッコさんは」稲見は磯野に語りかける。「信じて島を出たのはいいけど、宝島を見つけるまでに二人離れた時間は長く、置いてきた大切な人は、待ち人を待ちきれなくなる……。宝島を見つけた方も、おそらく財宝に眼がくらんで、病みはしない。それを正直に表した曲だね、コッコさんの強く儚き者たちは」
「お前だったら、どうすんだよ……」磯野は稲見を睨んで言った。
「一緒に連れて行く」稲見は磯野を真っ直ぐに見据えて答えた。
「海は危険だぞ」夕は口元を笑わせて稲見に言った。
「島に置いてきぼりにするのも充分危ない」稲見は答える。「ジャッキーを想う気持ちに霞(かすみ)など一片(いっぺん)もない。今はジャッキーをひと時も忘れずに想ってる。海を行く船に、一緒に乗り込むよ」
「チップもいつも一緒だよ!」日奈子ははにかんだ。
「きいちゃんに愛された名犬チップか~」夕はにこやかに日奈子を見つめた。「愛だね」
「愛だよ!」日奈子は俊敏な動きで、大袈裟に小首を傾げた。
「お前のフクロウに名前は無かったのかよ?」磯野は夕を見つめた。
「フクロウだよ、名前が」夕は笑った。「フクロウの名前が、フクロウなんだ。カタカナで」
「ジャッキーもカタカナでジャッキーだね」稲見は微笑んだ。「チップちゃんは?」
「カタカナぁ…だね、チップも」日奈子は一瞬だけ眼をきょろきょろさせてから答えた。
「俺がクソガキだった頃実家で飼ってたウサギは、名前がクロとパンコだったな。うちもカタカナだったなぁ」磯野は懐かしそうに言った。「黒いからクロ。パンダみてえなメスだからパンコ。まんまだな」
「わたくしは幼い頃、自宅で小鳥を飼っていましたわ」咲希は上品な口調で言った。
「小鳥だ。名前は?」日奈子は咲希にきいた。
「一羽目が、ピースケですわ」咲希は答える。「二羽目はピーコ。三羽目はピースケですわ」
「今ピースケ二羽いなかった?」夕は嫌そうに咲希に言った。
「ええ、ピースケは二羽いました」
「あ、そう」夕は怯える。
「飼ってるペットを、そういうふうに、凄い…、大切にしてるの。凄い愛情が深い人だと思う……」飛鳥は日奈子達を一瞥して言った。
「家族だからね」日奈子は笑顔で言った。
「家族だ」稲見は頷いた。
「うちは妹か弟か、娘か息子かわからなかったけど、兄弟か、子供だな」夕はにこやかに思い出しながら言った。「肉食な可愛い奴だった」
「お姫様だね、うちの子も」稲見はうっすらと微笑んだ。
「お前らあれ買った?」磯野は皆に言う。「こんなに美しい月の夜を、君はまさか知らない」
「君はまだ、知らない、な……」夕は磯野の発言を訂正した。「秋元先生の歌詞集な!」
「何度も読んでるよ」稲見は微笑んだ。
「あー買いましたね、さすがに俺も」天野川はたこ焼きに手を伸ばしながら言った。「坂道シリーズの歌詞ってんで」
「いい勉強になりますわ」咲希は囁いた。「歌の歌詞、一度や二度、書いた事はあるでしょう?」
「ないわよ」兎亜は答える。
「なぁい」日奈子も答えた。
「書くもんなの?」飛鳥は不思議そうに咲希に尋ねる。
「ええ。書くものだと思いますわ」咲希は姿勢を正して答えた。飛鳥と日奈子に注目され、少し、緊張していた。「趣味、程度に……」
「ねえな」天野川は呟いた。
「俺ら書いたよなあ?」磯野は楽しそうに夕と稲見に言う。「すんげえの書いたよなあ?」
「ある意味で凄い」稲見は呟いた。
「忘れろ、イナッチ……」夕も呟いた。
「あぁ?」磯野は疑問の顔をする。「何言ってんだお前ら……」
「歌詞なんて、書ける?」飛鳥は日奈子を見る。
「いや」日奈子はにやけて、答える。「無理」
「いい歌は歌詞がいいですよね」兎亜は飛鳥と日奈子に言った。
「ああ、うん」飛鳥は頷いた。
「わかる」日奈子は必死な表情で兎亜を見つめた。
「ひゃああ……」兎亜は赤面する。「飛鳥ちゃんときいちゃんと、ティータイムしてるのよね、これって……。マジか」
「夢のようですわよね」咲希は微笑んだ。
「写真って撮影禁止よねえ?」兎亜は夕に言った。
「ああ、うん。ファン同盟のメンバーと乃木坂が一緒に映るのは禁止だね」夕は兎亜に説明する。「でも、乃木坂ソロでも、飛鳥ちゃんとかさくちゃんみたいに、写真撮影嫌がるメンバーもいるから、本人に確認と許可取ってからにしてね、撮影は」
「了解」兎亜は飛鳥を一瞥して、浮かんできた笑みを堪えた。
「ファン同盟のメンバー同士はいいのですか?」咲希は夕にきいた。
「そりゃ自由だよ」夕は答える。
「とーちゃん、撮りましょ?」咲希は兎亜に微笑んだ。
「撮ろう撮ろう」兎亜は咲希に笑みを浮かべた。「みこ氏」
「ミコシ?」夕は兎亜と咲希を交互に見る。「とーちゃん?」
「御輿(みこし)はそのままか」天野川は咲希と兎亜を一瞥して言った。「お前は、とーちゃんかよ」
「嫌なら他のを付けてくれてもいいのよ」兎亜は強調的な半眼で微笑んだ。
「てめえは宮間だ」天野川は答える。
「てめえって……」飛鳥は苦笑した。
作品名:忘れないをポケットに。 作家名:タンポポ