忘れないをポケットに。
最後の瞬間が訪れると、北野日奈子は、純粋なその笑みを浮かべ『皆さんの事が、本当に大切で大好きです。ありがとうございました』と、元気よく発し、希望溢れる明日へと向き合い、ステージの階段をゆっくりと降りていった。
そして、このステージから、彼女の姿は見えなくなった。
14
五月の初日を迎えた日。北野日奈子は〈リリィ・アース〉の地下二階にいた。
乃木坂46の『釣り堀』がフロアには流れている。
齋藤飛鳥も、そこにいた。
エントランスの、東側のラウンジ。
ソファ・スペース。
通称、〈いつもの場所〉。
「なんか、しんみりしちゃったね……、へへ」日奈子は笑った。「二人じゃまずいね、このままじゃ泣いちゃうかもよ?」
「ないない」飛鳥は苦笑した。「したら、あれしなよ。久保でも呼んだらいいじゃん。連絡しなよ」
「ライブリハで疲れてるだろうから」日奈子はにんまりと微笑んだ。「ああ、あっしゅんもか!」
「わてもですよ……」飛鳥は同じく笑う。「まー、あいつらは、そのうち来るんだろうけど」
「あー。あいつらね」日奈子は強く微笑む。
齋藤飛鳥は軽く頭上を見上げた。「イーサン、乃木坂レーダー、オンしていいよ」
畏まりました――と、電脳執事のイーサンのしゃがれた老人の声が応えた。
「何ぃ、それぇ?」日奈子は飛鳥を見つめる。「乃木坂レーダー?」
「すぐわかるよ」飛鳥はコーヒーグラスに揺れるストローを口に咥えた。
「えー何ぃ……。ひなこも飲~もお!」日奈子はメロンソーダをストローで飲む。「んん、うまい!」
「最近、誰かと会ってんの?」飛鳥はおつまみを箸でつまみながら日奈子の事を一瞥した。
「最近はねー、あーらりんさんと食事した」日奈子は笑顔で答える。
「らりんと?」飛鳥は少しだけ、驚いたような顔をした。「へー……。元気してた?」
「元気元気! ずっとしゃべってた、二人して。もう止まんない」日奈子は可笑しそうにしゃべる。「しゃべるのか食べるのか、どっちかにしろよって感じだった。んひ!」
「後は?」
「後はねー、あ。ひめたんとみなみちゃんと三人で会ったよー。みなみちゃんと伊織とも会ったし」
「みんな元気してました?」
「元気してるよ!」日奈子は笑顔で答えた。
「そっか」飛鳥は頷いた。
スペシャルサンクス・乃木坂46合同会社
十分程経過し、フロアを飾る乃木坂46の楽曲が『釣り堀』から『アンダー』に変わり、更に『日常』に変わったところで、風秋夕と稲見瓶と、少し遅れて磯野波平が〈いつもの場所〉に訪れた。
「卒業から初日、どう? 気分は」夕は日奈子に微笑んだ。
「うーん、良い感じ、だよ」日奈子は微笑み返す。「もうすぐライブだね。行くの?」
「配信でなら絶対に参加できるよ」夕は頷いた。
「いやー、あっすかちゃん、乃木坂レーダー復活の呪文唱えたろ?」磯野はにたにたと飛鳥を見つめる。「会いたかったか、俺に? ちと会いたくなっちったか?」
「お前は」飛鳥は言う。
「黙ってろ」夕は言った。
「あー。乃木坂レーダーってそういう事?」日奈子は磯野と飛鳥を交互に見つめる。「乃木坂の居場所がわかるって事でしょ?」
「そ」飛鳥は澄まして言った。
「あー知ってっかみんな。公式に、俺とかっきーは付き合う事になっかもしんねーからよぉ。そん時ゃよろしくな!」磯野は真顔で言った。煙草を用意している。
「禁煙だよ」稲見は磯野を一瞥して囁いた。
「どうしてお前はそどうどうと掟を破れるんだ?」夕は少し怯えている。「おつむ詰まってるの? そこに」
「かっきーがなー、スクールオブロックの放送で、公式に発表したんだ。私は波平を選びます、ってな」磯野は思い出して、にんまりと笑う。「日に一回聴いてっからよぉ。そん時の放送……」
「それは、サザエさん一家で、家系図に四期を当てはめろ、ていうコーナーだっただけじゃねえか」夕は嫌そうに言った。「私の性格とかポジション的に、波平さんがそうだと思う、てかっきーは言ったんだよ」
「お前を選んだわけじゃない」稲見はぽつりと言った。
「嘘つけ」磯野は余裕の笑みを浮かべる。「ありゃ告白だった! たしっかに告白だったっつの!」
スペシャルサンクス・秋元康先生
「嘉喜が波平っちを選んだら、付き合っちゃうの?」飛鳥はきょとん、とした眼で磯野を見つめた。
「え……。それって…どういう……」磯野は驚愕に等しい表情を浮かべる。「俺が今のを精確に翻訳するとな、……かっきー選んじゃうんだ、私じゃねえんだ、てなるんだが……」
「なぁらん!」夕は手で振り払う。
「なぜそうなる」稲見は呟く。
「んっふ」日奈子は磯野ワールドを楽しんでいる。
「じゃあどういう意味だ言ってみろてめえらっ!」磯野は立ち上がった。
「おお、立った立った」日奈子は楽しむ。
「かっきーが波平を選んだら、良識もなくそのまま付き合うのか、と、飛鳥ちゃんは質問しただけだ」稲見は淡々と言った。「ファン同盟の掟にある通り、そういうのはご法度なわけだから。それを踏まえた上でも強引に付き合うのかと、そう聞いてる」
「もしくは、からかわれたんだよ」夕はそう言って、微笑んで飛鳥を一瞥する。「ねぇー飛鳥ちゃん」
「いやそう聞かれてんだけなら、付き合うだろ、普通」磯野は座る。
「お前なー、乃木坂が活動中に恋愛すっとどうなるのかわかってて言ってんのかー?」夕は少し苛ついて磯野を睨んだ。
「隠しゃいいだろ」磯野は半眼で答える。
「バレるでしょうよ!」夕は反論する。「それとも何か、ここの存在みたいに報道関係をばら撒きで黙らせるってか?」
「そんな事してるの?」飛鳥は驚いた様子で夕を見つめた。「ばら撒き?」
「ワイロは仕方ないよ。そのかわり絶対の沈黙を約束されるから」夕は飛鳥に言った。
「ああ、噂をしていあたら何とかだね。かっきーだ」稲見はそちらを眺めた。
星形に五台並んだエレベーターの一角から現れた嘉喜遥香が、こちらへとにこにこと笑顔を浮かべて歩いてくる。
スペシャルサンクス・今野義雄氏
「こんばんは……」遥香はソファ・スペースの前で立ち止まった。「図書館にいたら、こんな時間になっちゃって……」
「かっきー結婚しちゃうか? とりあえずは」磯野は立ち上がって遥香に言う。「もういいんだろ、俺で」
「シットダァーウウン!」夕は磯野にそう言ってから、笑顔で遥香に言う。「となり、おいでよ」
「あ、うん」遥香は夕の隣へと移動する。
「かっきー髪切った?」磯野は遥香の顔を見つめて言った。
「タモさんか!」夕は激しく突っ込む。
「あ、うん。えいつの事?」遥香は苦笑する。「もうだいぶ前なんだけど……」
「写真集、『まっさら』だっけか?」磯野は遥香に頷きを貰うと、更に笑みを浮かべた。「彼女が世間的に露出するって、俺は別に気にしねえからよ。だいじょぶだぜ、遥香」
「あー遥香っつうなてめー!」夕はむきになって磯野を睨みつける。「マジで冗談抜きでぶっ殺すぞこらぁ!」
「俺よか弱ぇーのにぃ?」磯野は不敵に笑う。
「何で私が波平君の彼女になってるの?」遥香は苦笑して、きょろきょろとする。
「付き合うのを世間的に隠して付き合いたいんだって」日奈子は面白がって遥香に説明した。「どうすんの?」
作品名:忘れないをポケットに。 作家名:タンポポ