忘れないをポケットに。
「きいちゃんの長い長いこの九年間という旅路は、次の出発の為のきっかけ、なのですね」駅前は、夏男を見つめて囁いた。
夏男は、姫野あたるの隣に座った。
「うん。まだね、人生というストーリーの真っただ中だ。た~だ、アイドルの卒業というものはね、アイドル人生のエンディングではあるんだ。どんなにしっかりした人だって、溜息を吐かない人はいないからね。しっかりと最後まで支えてあげなきゃ、ね」
「きいちゃんさんは、涙を見せたがらない人です……。そんな人が、どんな困難に会い、陰で泣いてきたのか、私には、わかります……。ええ、ファンですから」
「好きってさ、理解してあげることなんだよ」夏男は熱いコーヒーをすすった。「ただ守るんじゃなくて、守られるだけでもなくて、心を共有することなんだよ。それが誰かを好きになる、っていう事さ」
「共有……」駅前は呟く。
「それは、もう愛なのかもしれない、けどね」夏男は笑った。
窓の外の風景を眺めている姫野あたるは、北野日奈子の笑顔を思い出していた。
そばにいたいよ。この先に、何があったとしても。
あなたのそばにいたい。
その大きな笑顔が好きで、僕は弱音を吐きづらくなっていった。
あなたが見えない時にも、あなたの存在を探した日々があった。
そんな辛い時期も、僕は毎日、あなたの存在をどこかで感じる事で、強くいようとした。
強くいられた。
どうしても挫けそうな時は今でもやってくる。けれど、負けるもんか。
あなたがそうであったように、僕だって勇気を持って立ち向かう。
幾度倒れそうになっても、あなたからもらった大きな笑顔を思い出して……。
また僕は、一つ強くなる。
愛って何だろう。
それを知りたがっていた時期が僕に確かにあった。
その答えは、今では知っている。
僕という不完全な人間を、支えてくれた分だけ、僕はその答えを再確認する。
ありがとうじゃ、到底たりないんだ。
だから僕は泣いて、そして泣いた分だけ、この人生に笑顔の花を咲かせていく。
いつまでだって、あなたを、好きでいる。
忘れることなく、死を迎えても尚、この広大な感謝を忘れる事はないだろう。
支えてもらった分だけ、僕は絶対に強くなる。
そして伝えていく。
あなたという大きな笑顔で笑う人が、僕の青春時代を色鮮やかにしてくれたのだと。
寂しく、辛いだけじゃない人生になったのは、あなたが笑うからだと。
乃木坂というあなたが、いつも輝いていてくれたからだと……。
今を泣いて生きている誰かに伝えていこうと思う。
卒業は、本当に辛いね。
もっと強くなりますね。泣いた後、今度は笑えるように。
4
二千二十二年二月二十四日。圧倒的なパフォーマンスで一気に放送された乃木坂46時間TVも無事に幕を下ろし、そうして訪れた今日。〈リリィ・アース〉の地下八階の〈BARノギー〉では、乃木坂46一期生の齋藤飛鳥と二期生の北野日奈子と三期生の山下美月と、乃木坂46ファン同盟の風秋夕と稲見瓶と磯野波平の六名が、一息入れようと、癒しのひと時を過ごしていた。
柿色に満ちた店内の至る箇所には、黒紫色に発行するブラックライトが点灯し、九十年代風の洋風居酒屋のような飾り付けが店内に遊び心を持たせている。
六人はカウンターではなく、テーブル席に集まっていた。
現在この〈BARノギー〉を彩づけている音楽は、ルーサー・ヴァンドロスの『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』である。
「ちょっと、ちょっとお」飛鳥は日奈子が手にしているメニュー表に手を伸ばす。「貸してよ。あんた頼んだでしょ」
「取って、て言って。んひ」日奈子は悪戯っ子のように飛鳥にはにかむ。「取って下さいご主人様って言って。言わなきゃダメ」
「言うかバカ」飛鳥は呆れる。「ちょっとお!」
「きいちゃんもやんちゃだな。十四歳ぐらいか?」磯野は言う。「精神年齢」
「もっと高いもん!」日奈子は笑ったままで磯野を睨んだ。「あ!」
「ふ~」飛鳥は奪い取ったメニュー表を開く。
「下さいって言って!」日奈子は飛鳥に必死に訴える。「言わなきゃダ~メ!」
「下さい」
「いえっせーーす!」日奈子は叫んだ。笑いながら言う。「いいですよ、ふふん」
「美月ちゃん、オフでは眼鏡かけてたんか~」磯野はうっとりと美月を観察する。「やべえな、完っ璧、だな!」
山下美月は赤い縁の細身の眼鏡をかけていた。
「そうなの。眼が小さくなっちゃうの……」美月は苦笑した。
「日奈子も家では眼鏡かけるよ!」日奈子は屈託のない笑顔とピースサインで磯野に言った。「んっふ!」
「きいちゃんの精神年齢は、二十四かぁ~五か、まあ、年相応だと思うな」夕は日奈子を一瞥してそう言い、磯野を見る。「お前だよ幾つなんだよ、精神年齢……」
「場数踏んでっからな~」磯野は考える。「大人だぜ? 意外に」
「クリア・アサヒ」飛鳥は囁いた。「わかったー、イーサン?」
畏まりました――と、しゃがれた老人の声がテーブル席に響いた。電脳執事のイーサンの声である。
「美月ちゃんは精神年齢高っかいよね~」夕はとろんとした眼つきで美月に言った。
「え~私? んふ。どうだろうね」美月は微笑む。「それこそ飛鳥さん高いと思いますよ。もう、六十代ぐらい」
「おーおー、なめてんなー」飛鳥は笑いもせずに言った。
「なめてませんけど、えそうじゃないですか?」美月は皆を見る。
「あっしゅんはねえ……、三十歳ぐらい、かな~」日奈子はにこやかに飛鳥を見つめながら言った。「うんでも、凄く大人だと思う」
「イナッチは?」磯野は日奈子にきく。
「んー、イナッチ?」日奈子は考える。「としそうなんじゃない?」
「子供扱いしてるね?」稲見は無表情で囁いた。「言っておくけどね、とある大学院の同じ研究分野の院生に来いと誘われてるからね、知識はあるよ。色んな人から、資格を取得したらいい教授になるとも言われる」
「じゃ二十八、てとこか」日奈子は稲見を一瞥して言った。「夕君はね、夕君はぁ~、二十七、ぐらいかな。七瀬さんとかと同世代っぽい」
「包容力と言って下さい。お姫様」夕はにこりと微笑んだ。「あでもそれじゃダーリンとタメだな、ダーリン二十七だから」
「え!」日奈子は眼を見開いて驚いた。「ダーリン、て…年上かよ! あれこれ、前にも聞いたっけな。前にも驚いたような気がする。んふ!」
「駅前さんは、あれですよね、お母さん、ですよね」美月は笑いながら言った。「精神年齢がですよ?」
「お前、悪いな」飛鳥は美月を一瞥した。「伝えとくわ」
「いや待って下さい、訂正します」美月は言う。「二十五で」
電脳執事のイーサンの呼び声で、各々のドリンクとフードが〈レストラン・エレベーター〉にて届けられた事が知らされた。
風秋夕と稲見瓶は、それをテーブルに並べていく。
店内を飾る楽曲が、ナズの『アイ・キャン』になった。
「あ! これ、この曲好きなんだけどさ」夕は小さく天井を指差して言う。「アーノーアーケン、アーノーアーケン、ビーワナワナビ、てこれ。ナズのアイキャンって曲なんだけど、この前飛鳥ちゃんのハマスカ放送部で流れたんだよ」
「え……」飛鳥は耳を澄ませる。「流れたっけ?」
作品名:忘れないをポケットに。 作家名:タンポポ