忘れないをポケットに。
「あのさー、会話してる時の普通の音楽として流れたんだよね。問題とか、テーマとかじゃなくて。ふつーに流れた」夕は缶ビールを開けて、グラスに注いだ。「乾杯しよっか?」
皆がグラスを用意し、乾杯とグラスを持ち上げた。
「お父さんに、うざい、ちね、事件があったね」稲見は笑みを浮かべながら、ゆっくりとしゃべった。「きいちゃんが中学三年生の時に、因数分解がわからなくて、お父さんに教えてもらった時に」
「そーそー、なんでこうなるのかがわからないんだよー、みたいなな? ケンカになって」磯野は楽しそうに言った。「親父さん、壁ぶったたく寸前で止めてな、拳を。男だぜ~。俺ならそのまんま穴あけてんな」
「お父さんがそれで泣き始めてぇ、で台所で作業してたお母さんも泣き始めるでしょう?」日奈子はまいったように苦笑する。「で日奈子も泣くでしょう? でその時に、もううざい! ちね! って」
「反抗期だったの?」稲見は日奈子にきく。
「いやっ……。ん別に、反抗期ってわけじゃ」日奈子は呟く。
「美月ちゃんちは仲良い?」夕は美月に言った。
「んー。うちは、普通に、仲良いですよ」美月は笑顔を浮かべた。「普通に」
「飛鳥ちゃんちは?」夕は飛鳥を見る。
「うちは、どうなんだろ……。普通、かなあ」飛鳥は夕を一瞥した。
「おおお! 与田ちゃんとれんたんじゃん!」
磯野波平は立ち上がった。皆が入口の方を振り返ると、そこには与田祐希と岩本蓮加の姿があった。
改めて、女子達は五人並んで座り、向かいの正面の席に、男子が三人で座った。
与田祐希と岩本蓮加はファースト・ドリンクとフードをそれぞれ注文した。
店内の楽曲がシェリル・リンの『ガット・トゥ・ビー・リアル』に変わる。
「おっ、与田ちゃん何で今日ポニーなん?」磯野は眼を輝かせて祐希を見つめる。
「なんとなく?」祐希はくすっと笑った。「気分で」
「ドッキドキが止まんねーー!」磯野の心は恋色に砕け散る。
「れんたん、今日も最強だね。可愛すぎます」夕は蓮加に微笑んだ。
「なんか、ゲームしすぎて疲れた……」蓮加は肩を落として溜息をついた。「ごめん今日は夕君のテンションにのってあげられない」
「じゃあ、俺が下げよう」夕は微笑んだ。「カメラなんて回ってないんだから、ゆっくりハメ外せばいい。ローテンションで行こうよ」
「があ~っはっはっは! そうだったなあ!」磯野は大声で笑う。夕は嫌そうな顔をしていた。「乃木中の二十歳の集いん時も、きいちゃん三つ編みだったよなあ? 今日も三つ編みだし、前も三つ編みだったし、しかも似合うし! があ~っはっ!」
「何だ何だ、どした?」夕はテーブルに顔を出して皆を窺った。
「いやね、きいちゃんが如何に三つ編みが似合うかを語ってたんだ」稲見が説明した。「乃木中でやってくれた二十歳祝いの食事会も、きいちゃんは三つ編みだったねという会話」
「あー、そうだったな」夕は思い出す。「みなみちゃんから貰った服着て、なんか可愛らしい二十歳の集いだったよなぁ?」
「よく憶えてんねえー」日奈子は感心した。「映像とか観ないと、髪型とか服装とかまではわかんない、思い出せない」
「きいちゃんは三つ編み世界一似合うよ」夕は笑って言った。「すげえ可愛いよ、きいちゃんの三つ編み。かっきーとかもたまにやるよね? あーれも世界一可愛いから、世界一は乃木坂にはいっぱいあるな」
「ああ、そうだね」稲見は頷いた。
「きいちゃんの可愛いで言うと、二千十七年の乃木坂工事中でやった、紙くずフリスローってコーナーで、紙くずをゴミ箱に入れると景品がもらえる、てミッションでさ、最後の一人になるまできいちゃん達がチャレンジしたんだけど」夕は言いながら笑う。「ゴミ箱がブラックホールみたいでよくわからないってきいちゃんが主張したら、相良伊織ちゃんが真顔で、いやわかるでしょ、で反論してさ。きいちゃんが困り顔でにっこりするっていうね、可愛いきいちゃんがいましたよ。あの夜」
「伊織ともいまだに会ってるよ」日奈子ははにかんだ。「卒業しても会ってるし、あひめたんとみなみちゃんと三人で遊びに行くんだぁ~。ひめたんが卒業した後も三人でよく会ってたから、みなみちゃんと私が卒業しても変わらずに三人で会うんだろうな~」
「いいね」稲見は囁いた。「サンクエトワールも、もうきいちゃん一人だね」
「思えば遠くまで来たもんだ。とはよく言ったものだよな」夕は言う。「サンエトがきいちゃんだけって、ゆゆしき問題じゃね?」
「特別存在感あるユニットでしたもんね……」美月は呟いた。
「好きです」祐希も呟いた。
電脳執事のイーサンの知らせと共に、与田祐希と岩本蓮加の頼んでいたファースト・ドリンクと幾つかのフードがテーブルに付属している〈レストラン・エレベーター〉に届いた。
店内を飾る楽曲がクーリオの『ギャング・スター・パラダイス』に変わる。
「ここで問題です」稲見は会話を楽しんでいる皆に、笑顔を向けた。「紙に青い文字で『あお』と書かれています。手を使って赤くしなさい。やってみて」
「え」美月は戸惑う。
「青を、赤くするの?」祐希は稲見に問い質す。
「紙に青い文字で、ひらがなの『あお』と書いてあります。手を使って、赤くしなさい」
「えー」祐希は険しい顔で飛鳥を見つめる。「わかるん、ですか?」
「わかった」飛鳥は呟いた。
「えー? 手を使って、青を赤に?」美月は表情を険しくして思考する。「え、どうやって?」
「それ、知ってる」日奈子はにやけていた。「あのねえ、漢字として受け取らない方がいいよ。言葉として受け取りな」
「言葉として?」祐希は呟く。「あおを、てをつかって、あかくしなさい………」
「っ?」美月は大きな笑みを浮かべる。「わかった!」
「えーわからん」祐希は蓮加を見る。「わかったあ?」
「うん」蓮加は眠そうな眼つきで答えた。「今蓮加全然違う事考えてた……答えは赤くするんじゃなくて、あを隠すんだよ。手で」
「正解」稲見は蓮加に微笑んだ。「紙に青い文字で『あか』と書かれています。手を使って、あ、隠しなさい。とね、こういう問題だったんだけど、これを実は乃木坂工事中でやったんだよ」
「きいちゃんな。最後までわかんなかったのぁ~」磯野は頬杖をついて笑った。
「檻ん中でさ、きいちゃんと綾てぃが最後まで二人して残ってたんだけど、綾てぃが正解に気付いても、きいちゃんが答えさせない為にさ、綾てぃに抱きついて阻止するんだよ」夕は嬉しそうに語った。「超可愛いの……。与田ちゃんの寝顔ぐらい可愛いよ」
「飛鳥ちゃんのラジオ体操ぐらい可愛い」稲見は言った。
「美月ちゃんのおやすみとれんたんの寝返りぐれえ可愛いぞ」磯野は真顔で言った。
「やめんかっ!」夕は叫ぶ。「コラぁ! すげえいい想像しちゃうだろぉ!」
「美月ちゃんのは、おやすみづき、だね」稲見は言う。「れんたんのは………」
「こーいつ!」磯野は稲見の顔を覗き込んで騒いだ。「顔赤くなってんぞー!」
「二千十三年の乃木坂ってどこ? の放送では、きいちゃんは雑誌やぶりをテレビで初披露した」稲見は片手で眼鏡の位置を修正しながら言った。「あれは、実はオーディションの時にお父さんがアドバイスしてくれた特技だったんだよね」
作品名:忘れないをポケットに。 作家名:タンポポ