江戸忍始末記
【一章】
さあさあと、雨の降る夜のことだった。
昼過ぎに山に入り、夕方には抜けるはずだったのが、思わぬ雨に足を取られ陽はすっかり落ちてしまった。
藩の敷地についたのはもう真夜中のことで、出入りの時刻なんてとうに過ぎており大門は硬く閉じられている。
「…どうすっかなぁ」
まだ春になったばかりで、ただえさえ夜は冷えるというのに。ぶるりと震えた身体は、雨ですっかり凍えきっていた。
――藩内に入り込んだ八左ヱ門は、何食わぬ顔で道を抜け、大通りにでた。
時刻も時刻なので、ほとんどの店がすでに暖簾をしまっていた。
たまに灯がともり、声が聞こえてくる店もあったが、そこは八左ヱ門が望むような旅籠ではなく飲み屋だった。
八左ヱ門がその前を通り過ぎる時、がらりと戸が開き、酔った男二人がふらふらと出てきておぼつかない手つきで傘を差した。
男達は傘もささずに立っている八左ヱ門を奇妙そうに見たが、八左ヱ門は、鼻に届いた食い物の匂いにそれを気にしている余裕はなかった。
(…そう言えば、飯、食ってないな…)
ふらりと足をその店に向けそうになったが、念のためさぐった懐にがっくりと肩を落とす。
財布がない。道の途中で落としたのかもしれない。
食べれないと思えば思うほど匂いが鼻につき、腹が低い音を立てるので、半ば振り切るようにしてその場を離れた。
(どこか…寝れるとこはねぇかな…)
旅籠はもはや諦めた。金もなければ時刻も時刻だ。開けているところなどありはしない。
せめてこの雨をしのいげるところがあれば…一眠りすればきっと、少しは体力も回復するはず。その後の事はそれから考えればいい。
空腹と急激に襲ってきた眠気に、八左ヱ門は朦朧としながら橋を渡りきった。
雨脚は引いてきたが、体力の限界が近づいていた。
ふと気がつけば、先程の賑やかさの残った大通りとは違って静かな道にいた。そこに並ぶ家々の一つに、ようやく濡れていない軒先を見つけて、身体を引きずるようにしてそこまでたどり着く。
家の主には申し訳ないが、もうこれ以上は動けそうにない。夜が明けて、家主が起き出す前に去ろうと決め、八左ヱ門は目を閉じた。