泡沫
盆を下に置いて宗矩同様 日向に腰を下ろすと、大きな手で湯呑みを包み込み暖をとって大剣豪がのほほんとした顔を上げる。
「で。なんで石田殿?」
「…はい?」
微妙に口元を引き攣らせつつ問い返す左近に、宗矩は相変わらずの眠そうな面持ちのまま続ける。
「禄にころっといった……わけないよねェ。仏心にしたって己を顧みないにも程があるし、島殿が自分から寿命縮める理由が判らないんだなァ…」
「…随分な言われようだね、うちの殿も」
苦笑する左近に「それとも、」と不意に宗矩の手が伸びる。
「離れられない身体にされちゃったのかな…?」
が、その手は獲物に触れる前に左近本人によってはたき落とされた。
「なわけないでしょうが。あんたじゃあるまいし」
「冗談冗談。ま、そうなったらなったで拙者も望むところだけど」
おじさんだって負けてられないからねェなどと意味不明な意気込み方をする大剣豪だったが、声の調子を戻してもう一度同じ質問をしてきた。
「…で?なんで石田殿?」
「……」
なんで。
面と向かってそう言われると、左近自身明確な理由があるわけではないためすぐに答えを用意するのは難しい。
ただ、仕官先を急いだり妥協をしたり、残りの余生を他人に預けようとしたなどということは一切なくて。
「…殿は、自分に何が足りないか…ちゃあんと判ってるんですよ」
「頭がいいっていうのは拙者も認めるよォ。でも、足りない部分が多すぎる御仁にどうこうできるほど、各地の将は甘くない」
のんびりとした口調で告げられたのは、否定のしようもない現実。
突き放すような物言いからは三成に対する不審感が滲み出ていて、左近は小さく笑い頷いた。
そんなこちらを見た宗矩の口元から、いつもの笑みがすっと消える。
「…そこも織り込み済みだと?」
「あの人は自分一人で天下を支えたいなんて思っちゃいませんよ」
「……」
「誰しも得手不得手、あるでしょう。役割分担してみんなで一個の国づくり、ってね」
にこりと笑う左近の言葉に、宗矩はどうにも腑に落ちないとばかりの難しい顔のまま饅頭を頬張る。
「…言いたいことは判らなくもない……が、現実的じゃあないよねェ」
もごもごと口を饅頭でいっぱいにしつつ横目を投げてくる宗矩に、左近は苦笑して曇りがちな空を仰いだ。
「ま、確かに日の本中が同じ考えを持たない限り成し得ないでしょうな。」
「日の本中が、ねェ…」
「そう。馬鹿でしょう?」
ぱっとしない空模様から隣に視線を戻し、軽い調子で問うこちらに宗矩は一瞬固まって瞬きをしたが、すぐに吹き出して笑った。
幸い饅頭は飛んでこなかったが、ヒヤヒヤするのも御免なのでそっと茶を手渡すと素直に男は飲み干し、改めて口火を切る。
「自分の主を馬鹿呼ばわりするの、お宅くらいじゃない?」
「さあ、どうだろうね。…でも、そんな画に描いた餅のような……誰も考えていない世を創ろうとする馬鹿の行く末ってもんに、興味がありましてね」
そう言って饅頭をかじると、だからって何も運命を共にしなくてもとでも言いたげな呆れた眼差しが横から注がれてきたので、知らないふりを通して頬で弾き返してやった。
「…はぁー、勢いで仕官したとか言ったら大和に引きずってこうと思ってたけど……残念だねェ」
「そのために今日来たんですか? あんたがそこまでお人好しだとは思わなかったな」
「…お人好しとは違うかなァ。誰だって大切な人には無理しないでほしいでしょ?」
「またそんな寝言みたいなことを…。いい加減目ぇ覚ましたらどうです、こんなむさ苦しい男相手に」
にこりと微笑みかけてくる男に、左近は嘆息して半眼で切り返す。
この男はいつもそうだ。
飄々として掴みどころがなく、確実に言う相手を間違えているだろうということをさらりと言ってのける。
そして。
「寝てないって。なんなら気持ちいいことして試してみるかい? まだ明るいけど、島殿がしたいって言うならおじさんいつでもいいよォ」
「…勘弁してくださいよ、今日はしません」
この弛緩した顔をまったく変えずに性欲全開の発言をしてくるのだ。
更には。
「なんだァ…いつかはそうなると思ってたけど、もう枯れちゃったのかァ…」
「……」
ときに失礼極まりないことを。
「…あ! そうかそろそろ月のもの……ってごめんごめん島殿それ置いて!」
ときに冗談とも本気ともつかないことを遠慮なくぶつけてくる。
左近は自身を宥めるように細く息を吐きながら盆を手に振り上げていた右腕を下ろし、どこか疲労の滲む声音で呟いた。
「…ま、心配してくれるその気持ちだけは受け取っておきますよ」
随分と歪んだものではあるが。