掴めない距離感
「今日はやめておこう。本調子ではない杏寿郎とやり合っても意味がないからな」
…彼の考えがわからない。
動きが悪いとわかっているならここで俺を仕留めればいいものを。
それとも罠か何かだろうか。油断を誘って隙を窺っているのか?
「腹の具合はどうなんだ。骨や内臓は治ったのか」
「きみには関係のないことだ」
「大いに関係ある。杏寿郎には強者であってもらわねば困るからな」
そんなことを話しながら、猗窩座は何故か距離を詰めてくる。
間合いなどお構いなしに歩み寄ってくるので、警戒したままそのぶん後退すると、相手は薄桃色の眉をひそめた。
「おい、何故逃げる」
「逆に訊くが、何故近づいてくる…!」
「何もしない。少し目を見せてみろ」
既に刀を振れば頸に届くほど接近してきている。
本当に何もしない保証などない。鬼の言うことなど真に受けてはいけない。
だが、ここまで敵意のない者を相手に刀を振るうことなどこれまでになく、動揺が判断を鈍らせていた。
そうこうしているうちに右の手首を掴まれる。
猗窩座の右手が無遠慮に眼帯に伸ばされ、さすがに空いている手で打ち払った。
「触るな」
「少し大人しくしていろ」
「やめ…っ、」
手を払われても別段気にした様子もなく、構わずに伸びてきた手に眼帯を取り払われた。
続け様に覗き込んできた金色の双眸は、少しでも動けば触れ合ってしまいそうで身じろぎすらできない。
息をつめて、参の一字が刻まれた瞳をひたすら睨みつけるが、対する本人はどこ吹く風だ。
「潰れた眼球は取り出したのか。賢明な判断だ。もしそのまま残っていたら掻き出して食ってやったのにな」
「…きみからしたら俺はただの食糧なのだったな。目玉など食って美味いのか」
「固体による。腹が減れば食うが、俺は好んで人間を食わん。だが杏寿郎の目玉は美味そうだ」
潰してしまったのが惜しいな、などと言いながら、左の窪んだ目蓋を指先がそっと這う感覚にぴくりと身体を捩る。
「痛むのか…?」
「い、いや…」
遠慮がちな声が意外で、思わず視線から険が抜けてしまう。
何故そんな触り方をするのか。
何故まるで慈しむような声音で訊ねるのか。
なんだか居た堪れずに、左手を握り込み相手の胸を軽く押しやる。
「…離してくれないか」
「杏寿郎…。お前、いい匂いがするな」
こちらの挙動など気にも留めず、猗窩座は鼻先を首元に寄せてくる。
…どういう、状況だ、これは。
死角となる左側に猗窩座の桃色の頭が至近距離に迫っていて、掴まれたままの右手首は異常なほどに熱い。
目蓋に触れていた手は気がつけば肩に置かれており、動物のように首筋の匂いを嗅がれている。
「稀血でもないのに何故こんなに美味そうな匂いがするんだ?お前、出血しているんじゃないのか」
「…していない!いいから退いてくれ…」
声が近い……脈が早くなる。
本当に何がしたいんだ、この鬼は。
体温が上がり思考が滞る妙な感覚に襲われ、全身に汗が滲む。
「杏寿郎、」
「な、なんだ!」
「舐めてもいいか」
「!?」
問われた内容を理解する前に、つん、と猗窩座の鼻先が首筋に触れた。
瞬間、膝をぐっと曲げて風よりも早く上体を深く沈め、相手の腹に対して垂直に右の足底を当てがい、思いきり蹴り飛ばした。
気を抜いていたのか、気持ちがいいほど猗窩座は真横に吹っ飛ばされ鳥居に激突した。
「ぐっ…」
項垂れて地面に座り込む猗窩座を視界に捉えながら、煉獄は彼の鼻が触れた一点を手で押さえていた。
…な、舐められたかと思った。
ばくばくと暴れる心臓を持て余す。
呼吸を駆使して落ち着かせようとするが、この血液が全身に巡る感覚は身に馴染んでいるはずなのに何故か制御が効かない。
「…体術にも精通しているとは、やはり俺が見込んだ男だ」