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青に溺れ、赤に染まる

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 じかに雇うとの言は一語のもとに却下された。生真面目すぎる義勇は、給与の増額にも頑として首を振らない。所詮は借金でしかない奨学金は頼りたくないと、こまねずみのように働いているくせに、施しを受ける謂れはないなどと言って贈り物さえ受けとりはしなかった。
 そんな相手は当然のごとく初めてで、無惨が躍起になるのは早かった。
 旅行もブランド品も、車やマンションだって、義勇の関心を引くことはできず、金銭などもってのほか。食事の誘いにすら了承してはもらえぬまま、それでも無惨は義勇のもとを何度も訪れた。
 なぜこんなにも必死になっているのか。不可解極まりない執着を持て余しながら、深草少将の百夜通いよろしく義勇詣でを繰り返した無惨に、呆れた顔で義勇がとうとう口にした了承の言葉はといえば、やはり無惨の理解の範疇を超えていた。

「俺の行きつけの店で、割り勘なら行ってもいい」

 そうしてクスリと小さく笑ったどこか幼いその顔を、無惨は、今も忘れられずにいる。無惨が初めて目にした義勇の笑みだった。



 運転手付きのリムジンに思い切り眉をひそめた義勇が、無惨に乗れと言ってきたのは、だいぶ使い込まれた自転車だ。無惨の眉根が義勇以上にきつく寄せられたのは言うまでもない。
 無惨の美意識からは外れるが、バイクならばまだ我慢もできる。とくに興味もない代物とはいえ、見栄えは悪くない。少し想像してみても、風を切ってバイクを走らせる義勇は様になりそうだ。原付きでもベスパならまだギリギリ譲歩してやってもいい。ローマの休日を気取るのも悪くないと思えたかもしれない。
 だが、目の前で義勇がまたがっているのは、どう見ても世間で言うところのママチャリだ。しかも、かなり年季がいったオンボロときている。
 ふざけるなと不快感を隠さず吐き捨てた無惨に、駐車場なんてないし自転車で帰らなければ明日俺が困ると義勇も譲らず、結局折れたのは無惨だった。
 自転車の二人乗りなど無惨にとっては人生初の経験で、一生経験しなくてもよかったものをと何度も舌打ちしたのは、最初のうちだけ。

「つかまってろよ」

 そう言ってペダルをこぎ出した義勇の言葉に、素直に従うのは業腹だった。デニムにパーカーの義勇はともかく、無惨のオーダーメイドのスーツは、古びてところどころ錆の浮いたママチャリにはあまりにも不似合いすぎる。リムジンの居住性とは雲泥の差な荷台の乗り心地は、思ったとおり最悪で、なんでこんなものに私が乗らねばならないのかと、腹立ちばかりが掻き立てられた。
 けれども、義勇の固くしまった腰を公然とつかめるのは、悪くない。義勇の真意はまったく読めないが、一度きりならこんな道行きも許してやろう。そう思った。
 日はすでに暮れ、空には満月が白く輝いていた。頬をなぶる風はまだ生温く、夏の余韻が漂う初秋のことだった。
 金木製の香りがする通りを、義勇の自転車は進む。周囲はありふれた住宅地で、ムードなどかけらもない。無惨の属する上流階級の日常からすれば、あまりにも取るに足りず、陳腐で凡庸極まりない光景だ。けれども、低俗の一語で切り捨ててもいいような風景のなかをゆく言葉もない道行きは、無惨の苛立ちをゆっくりと溶かしていった。
 家々の窓から漏れる明かり。時折聞こえてくる子供の笑い声。どこかで犬が吠えた。風に乗って香る金木犀。白い月。古い自転車は義勇がブレーキをかけるたびに、不快な金属音を立てた。掴みしめた義勇の腰は無惨が想像したよりも細く、けれども頼りなさなど微塵も感じさせない。
 オンボロ自転車の荷台はとんでもない乗り心地で、快適さとはほど遠く、けれどもし義勇が望むならまた乗ってやってもいい、そんなことを思いもした。もうしばらくは手に伝わる義勇の温もりと、金木犀の香りに混じってかすかに鼻先に届く義勇の匂いを、堪能するのも悪くない。いや、むしろもう少し。もう少しこのままと、わずかに願いもした。
 だが、無惨のそんな思惑など知ったことではないと言わんばかりに、無情にも自転車はキィィッと嫌な音を立てて止まった。
 行き着いた店は、これまた無惨が人生で一度として足を踏み入れたことなどない、いわゆる大衆食堂だ。染みのついた暖簾とアルミサッシの引き戸は、義勇の自転車以上に年季が入って見える。
 無惨はまたぞろ頭をもたげた不快感に、知らず眉をひそめた。

「フレンチも料亭も断っておいて、こんな小汚い店ならいいのか、貴様は」
「体育会系の学生の食欲をなめるなよ? そんなもので腹がふくれるか」

 苛立ちのままに吐き捨てても、義勇はこたえた様子など一向にない。いっそ小馬鹿にしていると言わんばかりな言葉と眼差しを無惨によこすなり、さっさとひとり引き戸を開けて店へと足を踏み入れる始末だ。
 こんな店で食事などできるか舌が腐ると罵倒し、迎えを呼ぶのはたやすいが、それではなんの意味もない。そんなことをすれば、おそらく義勇は二度と無惨の誘いに応えることはないだろう。憤懣やるかたなくともついて行くよりなく、ギリギリと眦をつり上げつつ、無惨も店に入った。
 行きつけというのは事実なのだろう。注文を聞きにきた垢抜けぬ年増女は、今日はまたずいぶんとオシャレなお連れさんだねぇ冨岡くん、などと言って笑っていた。

「そういえば貴様は水泳部だったな」

 壁の油汚れやらテーブルに残る輪染みが気になって、義勇が一緒でなければ一秒たりといるのはごめんな店だった。口を開くのも嫌なぐらいだったが、千載一遇のチャンスを無言のままにふいにするわけにもいかない。
 会話のきっかけとしては特別ウィットに富んだものではなかったが、それでも義勇は、常のように無視するでもなく、こくりとうなずいた。
「泳ぐのは好きだ。水のなかはなんとなく安心する」
 穏やかな声だった。倉庫で立ち働いているときの、どこかキリキリと張りつめた風情は消え失せていて、リラックスした空気をまとった義勇は、怜悧な目元すら和らいで見える。

 あぁ、こいつの瞳は海にも似ているな。

 ふと思ったそれは、納得とともに無惨の胸のうちに収まった。
 晴れた空の青。きらめく海の青。無惨がどんなに望んでも手に入れられぬ、忌々しい太陽とともにあるその青が、義勇の端正な顔で静かに輝いている。
 溺れそうだ。不意にそんな言葉が浮かんだ。それもまたいいかもしれない。この海にならば、この空にならば、囚われ生きてもいい。
 義勇の青く澄んだ瞳を見つめ、無惨はなぜだか、そう思った。



 無惨の人生に登場する予定などなかったはずのアジフライ定食とやらは、意外なことに、それなりに美味であったように思う。口数の少ない義勇は、ほとんど無惨の言葉を聞くばかりであったが、曲がりなりにも会話する気はあるようで、問えば一言二言であっても答えが返ってくる。出逢いからすれば格段の進歩だ。
 このチャンスは逃せない。できることなら今しばらく、義勇とともに過ごしたい。できれば朝まで。どう切り出せば義勇はうなずくだろう。考えてみても、自分とは隔絶した価値観の義勇を言いくるめるうまい手立ては見つからず、店を出ても無惨は黙り込んだままでいた。
作品名:青に溺れ、赤に染まる 作家名:オバ/OBA