水 天の如し
立っているのは、たしかに禰豆子だ。慣れ親しんだ炭治郎の妹の姿である。けれどもいつもの禰豆子ではなかった。姿形は変わりないように見えるのに、違うと、わかる。
鬼だ。わかってしまった。理解したくもないのに、わかってしまった。これは、鬼だ。
爛と燃える瞳。グルッと唸り声があがった。獣のように鼻にしわを寄せ、こめかみには血管が浮き出している。こんな形相の禰豆子など一度として見たことがない。ひどい臭いがした。
……異形の女と、同じような臭い。血の臭いだけがしない。まだ……食っていないから。
あぁ、本当に、禰豆子は鬼になったのだ。
「嘘だ……」
何度も胸の内で繰り返した言葉が、とうとう炭治郎の口をついた。知らず浮かび上がった大粒の涙が、まだまろい炭治郎の頬を伝い落ちる。
ガァッ!と獣のような声を上げ、禰豆子が牙をむいた。牙なんて、なかったのに。振り上げられた手には、鋭い爪。家事のじゃまになるからと、禰豆子は爪など伸ばしたことがないのに。
突如体が飛んだ。義勇に投げ飛ばされたのだと理解したときには、義勇と錆兎の剣は抜かれていた。
「やめろっ! 禰豆子を殺すな!!」
地面に叩きつけられたと同時に、炭治郎は弾けるように立ち上がっていた。一瞬だってボヤボヤとしている間なんてない。動け。自分に念じて、炭治郎は、飛びかかる禰豆子を阻むように立ちはだかる二人へと、必死に腕を伸ばした。
天幕のなかは、さほど広くはない。なのに、二人への……禰豆子への距離が、遠い。
「禰豆子ぉ――っ!!」
叫んだ刹那、喉の奥にかすかに血の味がした。力の限りの絶叫に、喉が切れたのだと知る。涙はとめどなく流れ、視界がぼやけていた。それでも。
「……止まっ、た……?」
かすれた錆兎の声が聞こえた。禰豆子の鋭い爪が、義勇の眼前にある。けれど動かない。手はブルブルと震えていた。義勇も動かない。禰豆子を切り払おうとしたのか、振り上げられた刀剣は、それでもその場に留まっていた。
「兄の声が届いたか。初めて見る」
変わらず抑揚のない声は、一触即発の危機であるはずなのに、妙に呑気にすら聞こえる。
「あぁ。めずらしいこともあるもんだ。腕の一つも斬り落とさなきゃならないかと思っていたけどな」
では、殺そうとしたのではないのか。思わずへたり込みそうになったが、安心している場合ではなかった。腕を斬り落とされるのだって冗談ではない。
「禰豆子っ、兄ちゃんがわかるか!? どこも痛くないかっ?」
必死に声をかけたが禰豆子は答えない。動きは止めたものの、獣のような唸り声を上げつづけている。額に汗の粒が浮いていた。
汗はいくつも浮かんでは落ちる。苦しそうだ。グルルと獣の唸り声を上げる禰豆子の息は、いかにも荒い。ブルブルと痙攣する腕や体が、額に浮かんでは落ちる大粒の汗が、禰豆子が懸命に衝動を押さえつけている証左に思えた。
禰豆子は、人を食わない。食わないよう、必死に堪えている。鬼になっても。
「禰豆子……」
泣きながら、震える足で禰豆子に歩み寄っていくと、忽然と天幕のなかに大きな声がひびいた。
「六根清浄、急急如律令!」
錆兎の声とともに、義勇が動いた。それは一瞬の出来事である。振り上げた右手の刀はそのままに、義勇の左手が目にも留まらぬ素早さで禰豆子の首筋を打った。
「あぁ! 禰豆子!」
とたんに昏倒した禰豆子に、炭治郎は走り寄った。
「義勇さん、なにをっ」
「封印する」
倒れた禰豆子をかき抱いた炭治郎が問うても、義勇はいっさいの感情を見せぬまま、錆兎へと顔を向けた。
視線を受けた錆兎が腰のひょうたんを手に取り振ると、コロリと転がりでたのは一本の竹筒だ。
「まさかこれが必要になる日がくるとはな」
言いながら禰豆子に手を伸ばすから、炭治郎は慌てふためき、禰豆子をいっそう強く抱え込んだ。
「な、なにをするつもりですか!」
「封印すると義勇が言っただろう? 人を食わないようにするための呪具だ。孫悟空の緊箍児(きんこじ)みたいなもんだ。老師のお手製だから効果は保証する」
使うのは初めてだけどなと、錆兎はどこか苦笑めいた笑みを浮かべている。
「それって……」
「人を食おうとすればたちまち狭まり、激痛がこの娘を襲う。最悪、すっぱり顔が両断される」
ヒエッ! と肩を跳ねさせて、炭治郎はますます禰豆子を抱く腕に力を込めた。
「やめてください! 禰豆子にそんなものをつけるなんて!」
叫ぶ炭治郎になどおかまいなしに、錆兎の手が禰豆子の腕をとらえた。
「やめろって言ってるだろ!」
「食われたいのか?」
「禰豆子は人なんか食わない! 今だって我慢してた!」
そうだ。禰豆子は懸命に耐えていた。きっとこれからだって。
炭治郎が真剣な瞳で錆兎を睨みつけ、きつく禰豆子を抱きしめても、錆兎は意に介せず口枷を禰豆子につけようとする。やめろとその手を打ち払おうとした炭治郎の手は、ふたたび義勇に止められた。
「おまえはなにも食わずに生きられるのか?」
「それは……で、でもっ、人を食べなくたってほかになにか」
「ない。人を食うのは鬼の本能だ」
「そんな……」
涙がまた炭治郎の頬を伝った。自分が苦しむのはかまわない。鬼とはいえど他者の命を奪うことになろうとも、禰豆子を救えるのなら自分はこの手に刀剣を握りもするだろう。だが、禰豆子はなにも悪くないのだ。鬼になったのは禰豆子の意思ではない。だというのに、こんな目にあった上に禰豆子はまだ、苦しまねばならないのか。
落とした眼差しの先で、禰豆子はまた眠っている。こうしていると鬼だなどとは思えない。愛らしくやさしい、自慢の妹だ。
「それじゃ、禰豆子はどうすればいいんですか……。人を食べさせるわけにはいかない。でもほかになにも食べられないんじゃ、結局生きてはいけないってことですか!?」
「だから封印し、老師のもとへ行く」
義勇の声はあくまでも淡々としている。炭治郎を気遣うわけでもなく、鬼である禰豆子に対しての嫌悪を示すでもない。口にするのは事実の伝達のみ。そこにはなんの感情も見られない。表情も露と動かず、冷淡と言ってもよかった。
けれど。
「封印……」
「この娘が人に戻るすべなど本当にあるのか、俺は知らない。だが、このままでは可能性すら得られない。鬼の始祖ならば知っているかもしれないが、今のおまえにそれを問い質す力はない。殺されるのが嫌なら、おまえが妹を守りもとに戻すための力を持て。妹には封印に耐えてもらう」
義勇の声には温かみなどかけらもない。それでも、義勇の言葉は炭治郎にとっては道標だ。絶望のなかでたった一つ輝く、指標の星。真北に輝く北極星のように、炭治郎の進むべき道を指し示す。
「わかりました……あ、あのっ、禰豆子の顔は大丈夫ですよねっ? 切れたりしませんよね!?」
「口枷が縮み切る前に食おうとするのをやめればな。そうとう痛いらしいからたぶん大丈夫だろ」
「たぶんじゃ困るんですけど?! ……うぅっ、禰豆子ぉ、絶対に人を食べようとしちゃ駄目だぞ? 兄ちゃんが絶対にもとに戻してやるから、禰豆子もがんばれ!」