水 天の如し
眠る禰豆子へと言い聞かせ、炭治郎は一度ゴクリと喉を鳴らすと、錆兎にうなずいてみせた。
竹筒を口に当てられても、禰豆子が目覚める気配はない。寝顔が穏やかなのだけが救いだった。
「禰豆子は俺が守ります。俺も、鬼を倒せるぐらい強くなります! お二人の老師のところへ連れて行ってください」
禰豆子を腕に抱いたまま、炭治郎は神妙に頭を下げた。なにがあってもくじけるものかと、胸が燃える。あげられた炭治郎の顔は決意に満ちていた。
「鍛錬は厳しいぞ。だが、男なら耐えろよ?」
「はい!」
強く答えたのはそこまでだ。
フッと笑った錆兎が不思議なひょうたんを禰豆子に向けるのに、炭治郎はギョッと目を見開いた。まさかと思う間もない。
「禰豆子、入れ」
「あぁぁっ!」
錆兎の命令が聞こえたとたんに、禰豆子はヒュルンとひょうたんに吸い込まれてしまった。炭治郎が止める余裕すらないままに、禰豆子の姿は見えなくなっている。
「ちょっ! これ本当に大丈夫ですか!? 禰豆子を溶かして食べたりしませんよねっ?」
「溶けない。俺らは鬼ではない。禰豆子を食うわけがない」
「男がいちいちわめくな。安心しろ。明日の朝にはおまえも入れてやるから」
「なにをどう安心しろと!?」
アワアワと慌てる炭治郎の耳に、天幕の外から「飯はまだかのぅ」と寛三郎の声が聞こえてきた。おっとりとしたその声に「じいさん、さっき食べただろう?」と答える甚九郎の声もまた、この場に似合わぬ太平楽なひびきがしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ひょうたんのなか、もうちょっとどうにかなんないのかなぁ。荷物詰め込みすぎだったもんなぁ」
思い出した光景に、炭治郎は思わず呟いた。乾いた笑いさえこぼれてくる。
朝になり出立するぞと声をかけてきた錆兎は、二言なしと言わんばかりにひょうたんを向けてきたものだ。錆兎の入れとの命が聞こえたとたん、待ってとの言葉すら言い終える前に、炭治郎の体は禰豆子同様にシュルンとひょうたんに吸い込まれてしまった。ひょうたんに吸われるなんて経験は、当然のごとく初めてだ。できれば二度とごめんこうむりたい。少なくとも錆兎のひょうたんは勘弁だ。
ひょうたんは、無限に吸い込めるというわけではないらしい。薄暗いなかには、大小様々な荷物がギチギチに詰め込まれていた。手足を伸ばす余裕すらなかったのだから呆れてしまう。先に吸い込まれていた禰豆子が、膝を抱えるようにして荷の隙間で眠っているのを見つけたとき、炭治郎はなんとも申し訳ない気分になった。炭治郎とて、上下もわからぬ薄暗闇のなかで、禰豆子と同じように膝を抱えて出られるのを、情けない心持ちで待つよりなかったのだけれど。揺れを感じなかったのだけが救いといえる。
せめて、吸われてもいいか意思確認ぐらいしてもらいたいところだったと、思い出すといまだに炭治郎はちょっと遠い目をしたくなる。
「あれって整理整頓はできないのかなぁ。旅に連れて行ってもらえても、あのなかじゃ禰豆子がかわいそうだし……イテッ」
「そんなことを呑気に悩んでいるとは余裕だな」
唐突な痛みと声に振り返れば、思い浮かべていた二人が立っていた。気配などまったく感じさせないのはさすがだ。
「錆兎さん痛いです……あっ、義勇さん!」
脳天にゴツンと落とされた拳骨は、錆兎のものだったようだ。本人は軽く叩いたつもりだろうが、やっぱり無闇矢鱈と痛い。
だが、一瞬涙目になった炭治郎の瞳は、すぐに明るく輝いた。
「おかえりなさい、義勇さん! 錆兎さんも」
「俺はついでか?」
「そんな滅相もない!」
泡を食う炭治郎に、錆兎は気を悪くしたふうでもなく笑っていた。義勇はといえば、あいも変わらぬ鉄仮面っぷりである。気づき炭治郎の眉根が、わずかに切なく寄せられた。
「今度も見つかりませんでしたか……」
義勇のまるで表情が変わらぬ顔は、ほの悲しくて胸が痛む。少しうつむき言った炭治郎に、答えはいつもどおり、錆兎から返ってきた。言葉も毎回同じこと。
「あぁ。だが諦めてたまるか。必ず義勇の心の破片(かけら)をすべて取り戻してみせるさ」
決意みなぎる錆兎の言葉には、いつもながら、どこかしら自分に言い聞かせるようなひびきがある。
義勇には、感情がない。
冷淡だとか淡白だのといった話ではなかった。心そのものを奪われてしまったのだ。だから義勇は、うれしいと笑うこともなければ、悲しいと泣くこともない。
もうずっと長いこと、義勇の笑顔を見ていないと錆兎は言う。涙も、憤怒も、義勇の顔にはいっさい浮かぶことがない。炭治郎にとっても身を切られるほどにもつらいが、錆兎の苦悩はなお深い。
義勇とは幼馴染だという錆兎は、義勇が、己の心を魔道の徒である道士に受け渡そうとするのを止められなかった。二人が十三歳のときのことだ。齢二十一になった今でも、錆兎はそれを悔いている。
炭治郎が二人と出逢ったのは、二年近く前のことである。十三から炭治郎と出逢った十九までも、さらに二年が経とうという今になっても、義勇の心の破片は、一つも見つかってはいない。
だが。
「一刻も早く一緒に旅に出られるよう、がんばります!」
勢い込んで言った炭治郎に、険しかった錆兎の顔がふとゆるんだ。浮かんだ笑みはいつもの不敵さをたたえている。
「……あぁ。今となってはおまえの鼻が頼りだからな。だが、それには老師の試験に合格しなけりゃならないぞ。足手まといを連れ歩くのは俺もごめんだ」
「絶対に元宵節までには師父のお墨付きをもらってみせます! あ、そうだっ。今夜は二人とも泊まっていくんですよね? 俺、薬膳の腕前あがったって、真菰にも褒められたんです! 期待してくださいねっ。霊芝と人参採ってきます!」
錆兎の返答を聞くより早く、炭治郎は木剣を腰に挿すと、トンッと地を蹴った。
ポンポンと飛び跳ね高い梢をわたっていった炭治郎に、地上に残された錆兎の苦笑は見えない。まるで猿(ましら)だななどという言葉も、炭治郎の耳には届かなかった。
おいしいと喜んではくれずとも、義勇の体を健やかに保つ料理を自分が作れるのは、うれしい。炭治郎の足取りは軽かった。