水 天の如し
義勇の母は、産後の肥立ちが悪く、義勇が生まれてひと月ほどで亡くなった。そこで、白羽の矢が立ったのが、ちょうど錆兎を生んだばかりの家生である錆兎の母だ。錆兎と義勇は、親友であるだけでなく、乳兄弟でもあるわけだ。
もとより清廉、高潔を旨とする星見の家である。家長である義勇の父や星見である祖母は、家生につらく当たることは一度もなかったと錆兎は言う。それでも錆兎はただの下男だ。将来など夢見ることさえありえなかった。義勇と一緒に高名な鱗滝のもとへ通い、教育を受けるなどとんでもない話だ。いかにやさしい主人であろうと、ただの使用人にそんなことを許す者などいない。
なのになぜ錆兎が鱗滝のもとで指南を受けられたかといえば、それは義勇のおかげだと、錆兎は懐かしげに笑った。
なぜ錆兎と一緒ではいけないのか。錆兎にも自分と同じ教育が与えられぬのであれば、自分も行かない。父親や先代星見であった祖母に、そう義勇が物申したのがきっかけだと、錆兎は笑う。
「本当なら、家生の両親のもとに生まれた時点で、俺の将来も決まっていた。だが、義勇は俺に未来をくれたんだ。あと、蔦子さまな。とてもやさしくて美しい方だったよ。俺のことも義勇同様に弟として接してくれるほどにな。だから俺は義勇とともに、未来を夢見ることができた。俺は軍に入り出世して将軍に、義勇は国子監(こくしかん/最高学府)に進んで国司を目指す。国の未来を二人で背負うんだって、夜通し話したこともあったな」
語る錆兎の顔には笑みがあったが、その目はどこか切なく遠くを見ていた。錆兎の声を聞きながら、炭治郎が思わず視線を向けた先で義勇は、なんの感慨も浮かんでいない顔でただ静かに座っている。愛していた姉の名にすら、義勇が反応を示すことはない。秀麗な、けれども人間味を削ぎ落としたような顔に、炭治郎の胸がまたツキリと痛んだ。
「義勇の父親と祖母がそろって流行病で亡くなったのは、俺たちが十二のときだ。その時点で蔦子さまが星見を継ぐはずだったが、蔦子さまも病に倒れてな。寝たきり状態が長く続いたんで、星見不在にならざるを得なかった」
「義勇さんには、ほかにご家族はいないんですか? 星見ってかなり重要なお役目なんでしょう? 継ぐ人はいなかったんですか?」
「いないな。これ幸いと家を乗っ取ろうとした親族ならいるが」
「はぁ!? なんなんですか、それ!」
あまりにも非道な話ではないか。思わずいきり立った炭治郎に、錆兎は軽く肩をすくめ、どこか冷たい笑みを見せた。
「直系でなければ、力は受け継がれないんだ。我こそが次期星見と勝手に名乗りを上げたところで、力のない口先だけの輩を庇護するほど国も馬鹿じゃない」
「あぁ……それじゃ」
「すぐに却下されて、すごすご退散したさ。ただ……蔦子さまの体調が戻らず、星見を継げないとなったとき、誰が跡を継ぐのかという問題は残る。国と蔦子さまが望んだのは、義勇だ」
「えっ!?」
とっさに炭治郎は義勇を仰ぎ見たが、自分のことを話されていても、義勇はやはりなんの反応も見せない。
錆兎の口から、深い溜め息が落ちた。
「星見の力だけで言うなら、義勇のほうが蔦子さまよりも優れていると思われていたんだ。冨岡の星見は、水を用いる。水盆に映る行く末を見るんだ。力が強いほど、見えた未来は現実に起こる。実際、義勇は幼いころから急な雨を言い当てたり、水が湧く場所がわかったりした。この子は水に愛されていると、先代さまはおっしゃっていたな。だが、冨岡の跡継ぎは長子と決まっている。それまでは、長子の力が一番優れていたから、例外が生まれるとは思っていなかったんだろう。誤解するなよ? 蔦子さまだって歴代の星見に引けを取らなかった。義勇の力が格別だったんだ。歴代最高の星見になり得る力だと、先代さまもおっしゃってた。跡継ぎを蔦子さまにと決められたときにも、かなり悩んでおられたぐらいだ」
錆兎の声が、ふと剣を帯びた。灰色がかった紫色の瞳が、ふいと窓の外に向けられる。
「義勇は星見となることなんて、一度も望んじゃいなかったさ。蔦子さまよりも水に愛されていることを悩んでもいた。だからこそ、先代さまもけっきょくは蔦子さまを跡継ぎにと定められたんだ。俺も、義勇に力がなければと、いまだに思うことがある。……力があったばかりに、あいつに目をつけられたんだからな」
ギリッと、歯を食いしばる音がした。錆兎の横顔は険しい。月を見上げる瞳に、怒りの焔が見えるようだ。
「あいつ……?」
「鬼の始祖……鬼舞辻無惨」
つぶやきに返された声は、絞り出すようだった。息を呑み、炭治郎の背が我知らずブルリと震える。その禁忌の名は、国の命運をも握るものだと、もう炭治郎は知っている。禰豆子を鬼に変えた元凶であり、義勇の感情を奪った、怨敵。無惨の名に、炭治郎の顔も勢い厳しくなった。
「……あぁ、かなり遅くなったな。寝不足で試験に失敗したんじゃなんにもならないぞ。そろそろ床に入れ。義勇、俺らも寝よう」
コクリとうなずき立ち上がる義勇を、炭治郎の視線が追う。餅茶の清涼な香りに紛れ、義勇の淡すぎる匂いは感じられない。
じっと見つめていても、錆兎と連れ立ち房を出ていく義勇は、振り返ってくれることはなかった。小さく溜息をつき、炭治郎も、炉炭の火を落とすと茶器を手に立ち上がった。
錆兎の言うとおりだ。万全を期して挑まねば、なにも始めることはできない。禰豆子を人へと戻すことも、義勇の感情を取り戻すことも、すべては明日の試験の結果次第なのだ。
「……きっと、すごくやさしい子だったんだろうな。お姉さん思いで、正義感があって……いっぱい、笑ってたのかな」
思い浮かべる義勇の顔は、玲瓏でありながらもどこか冷たい。みじんも動かぬ表情を見慣れた炭治郎には、幼い義勇の姿はうまく想像できなかった。
「絶対に、合格しなきゃ。義勇さんに、笑ってもらえるように。義勇さんが笑えるように」
祈るように決意を口にする炭治郎を、仄白い月が照らしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「では、始めるとするか」
不思議な面をつけた老爺、鱗滝老師の声に、炭治郎はゴクリと喉を鳴らした。
「がんばってねっ、炭治郎」
「気を抜くなよ」
かけられた声に、炭治郎が振り向けば、錆兎に真菰、そして義勇が炭治郎を見守っていた。義勇はただたんに立っているだけだろうが、それでも、炭治郎にとっては心強い。
「うん! 絶対に合格してみせるから待ってて」
笑ってみせた炭治郎たち一行の目の前には、大きな洞窟がポッカリと口を開けている。朝になり、さて行くかと鱗滝に案内されてきた炭治郎は、思わずあんぐりと洞窟に負けず劣らず口を開け、こんな洞窟ありましたっけ!? と叫んだものだが、なにしろここは狭霧山。周囲に名の聞こえた仙境だ。不思議な事象には事欠かない。
ここが旅立ちのための試験会場となるのだろう。洞窟はたいそう深いように見えた。外からではなかの様子はまるでわからない。
「やることは単純明快。おまえを害そうとする敵をすべて倒せ。それだけだ」