水 天の如し
ふたたび炭治郎の喉が鳴る。敵をすべて。一騎打ちとはかぎらないというわけだ。単身乗り込む炭治郎が、四面楚歌となる可能性は高い。おまけに洞窟を初めて訪れる炭治郎に、地の利はないに等しい。判断力が生死を分けることになるだろう。
生死。ふと浮かんだその文言に、炭治郎はさらに顔つきを引き締めた。修業の地、狭霧山に張り巡らされた罠は、それこそ生死を問わぬものがわんさとあった。飛んでくる刃、落とし穴に仕込まれた竹槍、ほんの少しでも気を抜けば大怪我をするだけでは済まされないものばかりだ。
敵は、確実に炭治郎の命を狙うだろう。ただの試験だなどという甘い考えが、通用するわけもない。試験を突破したあとに待ち構えているものは、物見遊山の楽しい旅ではないのだ。ここを突破できぬようでは、生き残れない。禰豆子を人に戻すことも、義勇の心を取り戻すことも、夢物語で終わり、炭治郎は若い命を散らすことになる。
「持っていけ」
鱗滝に手渡されたのは、一振りの剣。今までの木剣とは重みも違う。鞘から抜けば、真剣の輝きが目を焼いた。
命がけ。そんな言葉がまた浮かぶ。
そしてそれは、炭治郎にだけいえる言葉ではない。真剣を振るうその意味は、他者の命を絶つということでもある。
一瞬だけ湧き上がった怯えを、炭治郎は、静かに大きく呼吸し飲み込んだ。
鬼を、倒す。それは、鬼を殺すことと同義だ。
炭治郎は自分や家族の糧とする以外に、ほかの命を奪ったことなどない。だが、これからは違う。殺さなければ殺される。そういう旅に出るのだという実感が、炭治郎のまだ幼さを残す四肢を震わせた。
鬼だからなにも悩まず殺していい。そんな境地にはまだなれない。炭治郎が目にした鬼は、家族の仇と妹の禰豆子だけだ。鬼はかつては人であった。人を殺し、食う、異形の怪物であっても、望んでそんな境遇に落ちたわけではないのだ。
それでも。
「行け、炭治郎」
「はい!」
真剣を腰に携え足を踏み出した炭治郎の目の前に、暗闇が広がっている。試験が始まる。自分の命と他者の命をかけた、命がけの試験が。
深い暗闇を見据える炭治郎の瞳には、静かに燃える決意だけがある。迷いなく足を踏み出した炭治郎の体は、すぐに闇へと飲まれていった。