水 天の如し
◇少年、苦い邂逅を乗り越え進むの段◇
炭治郎が洞窟に足を踏み入れたとたん、突然、周囲は暗闇に包まれた。とっさに振り返り見た入り口も闇に包まれて、並び立っていたはずの鱗滝たちの姿などどこにも見えない。前も後ろも真っ暗な闇だけがあった。
一瞬ヒヤリと背が震えたけれども、慌てふためくことでもない。炭治郎は小さく息を吐きだすと、グッと唇を引きしめた。不思議なことが起こるたびに、いちいち慌てていては試験に合格するどころか、狭霧山では暮らしていくことさえできやしないのだ。
けれども、明かりがなければ心もとないのも事実である。修業を始めてから、以前よりも夜目は利くようになった。だが洞窟の暗闇は、あまりにも深い。伸ばした自分の手すら見えない闇のなかでは、進むべき方向すらわからなかった。
取れる手立ては二つ。このままとにかく進むか、敵が現れるまでこの場で待つか。
炭治郎が選んだ選択肢は前者だった。待っていれば敵が現れるという確証はない。もちろん、進んだところでそれは変わらないのだけれど、地形すらわからぬ場所で立ち尽くすよりも、周囲を把握するためにも動くべきだろう。
「目だけに頼るな。匂いや空気の流れでも見るんだ」
密やかな声でつぶやき、炭治郎は、深く息を吸い込んだ。呼吸は鼻から吸い、口から吐く。深く、深く。どんな場でも呼吸は乱してはいけない。今まで習ってきたすべてを、一つたりと軽んじるな。
冷静に自分に言い聞かせ、炭治郎は、周囲の匂いや頬に感じる空気の流れに意識を集中した。
音も同じだ。耳でも見る。先のつぶやきは、岩に反響することなく聞こえた。炭治郎はもう少しだけ大きく、わっ、と声をあげてみた。敵に聞きつけられるかもという怯えはなかった。ただ待っていたところで、試験なのだから襲ってこられることに違いはない。むしろ敵が現れ、空気の流れが生まれるほうが、打つ手も浮かぶ気がした。
声は跳ね返ることなく吸い込まれていく。かなり広い空間なのだろうか。左手を真横へと伸ばす。じりっと足をすべらすように左へと向かっていくと、やがて手がゴツリとした岩肌に触れた。
手探りで確かめ、炭治郎はひとまず岩壁に背を預けた。これで少なくとも背後からの奇襲はない、はずだ。けれども落ち着く間はない。刀を抜いてしまいたいところだが、それでは片手が塞がれる。周囲の地形すらわからぬ状況では、片手でいるのは心もとない。炭治郎はめまぐるしく思考を巡らせる。
このままでは動けないが、さて、どうする。
「壁沿いに歩いてみるしかないか……」
つい言葉にしてしまうのは、少しばかり不安が心に残っているからかもしれない。暗闇のなか、なんの音もしないというのは、なんとも心細くなるものだ。
怯懦な己に喝を入れるべく、炭治郎は、よし! と一つうなずき歩き出した。手は岩壁につけたままだ。
頭のなかで歩数を数える。どんな些細なものでも、情報はおろそかにできない。足元すらおぼつかないせいで、つい歩みはおっかなびっくりになりかける。けれどもそれでは意味がない。努めて歩幅を均等に保ちながら、炭治郎は慎重に進んだ。
「えーと、走るときと同じぐらいの歩幅じゃないと駄目だよな」
ついつい独り言が口をつくのはご愛嬌だ。自分のつま先すら見えないのだ。無造作に足を踏み出した先に地面がなくとも、きっと落ちるまで気づけないだろう。警戒心から自然、歩みはそろりそろりとしたものになる。普段とくらべれば倍ほども時間のかかる歩みだ。
知らず焦れそうになるが、焦ったところでいいことなどきっと一つもない。周章は冷静さを失わせるし、そうなれば敵の急襲への反応も遅れるだろう。冷静に、落ち着いてと自分に言い聞かせながら、炭治郎はゆっくりと前に進んでいく。とはいえ、この暗闇のなかでは、前も後ろも定かではないのだけれども。
どれだけ経っただろう。脳裏で二百歩とつぶやいたと同時に、つま先がコツンとなにかに当たった。そろりと動かしてみた足に感じる形状は、平面に思える。壁か? 曲がり角だろうかと足を止め、炭治郎は壁伝いに手を這わせた。
「……岩じゃ、ない? 木の感触っぽいけど……板かな?」
自分の正面まできた手が触れたものは、ゴツリとした岩ではなかった。ソロソロと手を這わせ続けると、どうやら行く手を塞いでいるのは扉だと知れた。
こんな洞窟に扉とは、いかにも怪しい。けれども開けぬという選択肢はなかった。
「進まないわけにはいかないもんな」
つぶやきながら炭治郎は、手探りで取っ手に手をかけた。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。ままよと勢いよく扉を開ければ、眩しい光が目を焼いた。
思わずギュッと目を閉じた炭治郎は、己の失態に気づき慌てて無理やり目をこじ開けた。真っ暗闇から一転した明るさは、痛いほどだ。視界がうまく働かない。
パチパチとせわしなくまばたきしながら、炭治郎は腰に差した刀に手をかけた。いま襲いかかられたら、避けられるだろうか。ヒヤリと背に汗が伝った。
灯明ではありえぬ眩しさは、炭治郎の顔に温かさまで伝えてくる。闇のなかではかすかにも感じられなかった風が、頬を撫でていった。
「日射し……? 嘘だろ」
呆然とつぶやいた炭治郎の声は、驚愕にかすれていた。ようやくまともに働き出した目が映す光景は、到底信じられぬものであった。
「町……だよな」
大きく見開いた目に飛び込んできたのは、どこにでもある町の雑踏だ。明るい日が差し、風が吹いている。目の前に続く往来の脇には、商店が並んでいた。値段交渉する客と店主の会話、はしゃぎ声をあげて走っていく子供……ほんの二年ほど前まで炭治郎にとって日常だった光景が、そこにはあった。
雲取山の麓の里よりいくぶん栄えた町の様子に、見覚えはない。けれども懐かしいと思えてしまう。穏やかな町並みは、焼き上がった茶器などを背負い、時に禰豆子や竹雄をともない行商に行った町に、どこか似ていた。
泣きたくなるよな郷愁は、けれども炭治郎の背を冷やすばかりだ。洞窟を抜けたと考えるには、この光景はあまりにも突然過ぎる。こんな巨大な洞窟と隣接する町などあるものか。
「まやかしか?」
気を引き締め直し、油断なく周囲をうかがうけれども、往来を行く人々の顔はいかにも呑気だ。怪しいところなどまるで感じられない、ごく普通の人々である。スンッと鼻をうごめかせて匂いを探ってみても、異様な気配は微塵もない。
一度戻ってみるか。思い振り向いた炭治郎の目が、ふたたび驚愕に見開かれた。
「ないっ! え、嘘だろ!? いつのまにっ?」
キョロキョロと見回しても、つい一瞬前に通った扉は、跡形もなく消えている。前も後ろも町並みが続いているばかりだ。数秒前にいた場所がなくなっているのは、洞窟の入口と同じだ。だが此度(こたび)ばかりは、驚くには値しないと冷静でいることはできなかった。
なんてこった、これじゃ戻ることもできやしない。
呆然としつつも、炭治郎は気を緩めることなく辺りを探る。なにひとつ見落とすわけにはいかない。ここがどこかは定かでないが、試験の一部であるのは確かだ。どう見ても怪しげなところなどまるでない市井の人たちであろうと、気を抜けばいきなり襲いかかってくる可能性はある。