水 天の如し
試験の内容は、害そうとしてくる敵をすべて倒す。このままのんびりと物見遊山で時が過ぎるなど、ありえないのだ。
ここにいる人たちが、もしも一斉に襲いかかってきたら……。いや、それならまだマシだ。最悪なのは、無関係な人たちであった場合である。この場で敵が襲ってきたら、この人々は敵の人質にもなり得るし、盾にされる可能性も高い。
ここは、まずい。もう少し人気のない場所に移動したほうがいいなと、炭治郎が足を踏み出したそのとき。
「兄ちゃんっ!」
幻聴かと思った。聞こえるはずのない声だ。もう二度と聞けぬと泣いたその声に、振り向き見た駆けてくる幼い姿に、炭治郎の目に大きな涙の粒が浮かび上がった。
「……六太」
まさか。そんなはずはない。だって、六太は死んだのだ。鬼に食われて。体の半分しか残らずに。
あぁ、足がある。走っている。六太はうれしそうに笑っていた。焼き物を売りに行った炭治郎が帰ると、いつでもそうしていたように、炭治郎に向かって朗らかな笑顔で駆けてくる。
そんなに急いだら転ぶぞと、笑い返してやりたい。飛びついてくる小さな体を受け止め、ただいまと抱き上げてやりたい。けれども声にはならなかった。腕を広げてやることだってできない。
炭治郎は、ポロポロと溢れる涙はそのままに、刀の柄に手をかけた。
六太の亡骸を、炭治郎は見ている。冷えて凍りついた、上半身しか残されていなかった遺体を。どんなに嘘だと思いたくとも、事実はなにも変わらない。六太であるわけがなかった。
六太でないのなら、なんだ。……敵だ。これが、試験か。泣きながら炭治郎は、刀を抜いた。
「兄ちゃん?」
白刃を手にした炭治郎に、六太の足が止まった。キョトンと見上げてくる顔はあどけない。
深く静かに呼吸する。臍下丹田(せいかたんでん)に火が灯る。命の炎が燃える場所。六太には、もうない。
せめて苦しまないように。六太の姿をしているだけだとわかっていても、炭治郎の眉根は狂おしく寄せられた。
怯えすら見せずにいとけなく見つめてくる六太へと、炭治郎は刀を振りかぶった。その手が聞こえてきた声にピタリと止まる。
「兄ちゃんだっ! 炭治郎兄ちゃんも来たの!? やったぁ!」
「ほんとだ。兄ちゃんも来てくれたんだね!」
人並みからひょっこりと現れた笑顔に、炭治郎の顔がますます苦悩に歪む。
「茂……花子……っ」
「遅いよ、兄ちゃん。母ちゃん! やっと兄ちゃん来たよ!」
「竹雄っ。……母さん……っ」
涙で視界がぼやける。悲しいのに、心のどこかで喜ぶ自分がいた。
「おかえり、炭治郎」
笑いながら近づいてくる家族は、みな笑顔だ。痛々しげな傷などどこにも見えない。抱きしめてしまいたい。刀なんか放り出して、強く、ただ強く。けれどそんなことができるはずもなかった。
もう、死んだのだ。みんな。だからこれは、幻と変わらない。
うれしいはずの邂逅は、ただ苦い。もう二度と手にすることのできない、ささやかな幸せの形に、手を伸ばしたくなるけれど。己の手で切り捨てなければ、先には進めないのなら。
「……ごめん」
涙声でつぶやいて、六太を斬るべく足を踏み出した炭治郎は、ふたたび立ちすくむことになった。
「兄ちゃん?」
近づいてくる六太から、匂いがする。よく知る匂いだ。間違えるわけもない。六太の匂いだった。
愕然と立ち尽くす炭治郎の足に、ぽふんと六太がしがみついてくる。
駄目だ。油断するな、斬らなければ。
胸中で己を叱咤しても、手も足も動かない。だって、六太だ。姿形だけでなく、匂いまでもが。小さな手からは馴染んだ温もりが伝わってくる。
偽物じゃ、ないのか……。
六太だけじゃない。炭治郎の手にある刀など目に入っていないかのように、笑って駆け寄ってきた茂たちからも、懐かしい匂いがする。みんな、みんな、絶対に間違えるはずのない、家族の匂いがしていた。
「なん、で……」
「どうしたの、炭治郎。顔色が悪いわ。あぁ、こんなに泣いて……なにかあったの?」
頬に触れた母の手も、温かい。声がやさしい。
「母さん……鬼に、食われたんじゃ……」
呆然とつぶやいた炭治郎に、竹雄が笑った。
「なに言ってんだよ」
兄ちゃんだってそうだろ?
「……は?」
「もう、しっかりしろよな。だからここに来たんだろ?」
パンッと背をたたかれた。ちゃんと痛い。
なんなんだ。なにが起きてる?
「食べられたときはすっごく怖かったし痛かったけど、みんないっしょにいられるなら、ここでもいいよね」
花子の声は明るい。憂いなどどこにも感じられない。笑う顔は白く、あの日の鮮血などどこにも見えなかった。
「兄ちゃんも食われたから来たんだろ? あのね、新しい家は、山で暮らしてた家よりもおっきいんだよ! 行こう、兄ちゃん!」
震える炭治郎の手をとった茂の手は、温かかった。
まさか。ありえない。けれど、匂いも温もりも本物だ。ならば、ここがおかしいのか。ここは、どこなんだ。
「幽都(ゆうと)でも、家族で暮らせるなら幸せよ。ね、炭治郎」
ゾクリと背が震えた。ではここは黄泉(よみ)なのか。死者の住まう場所。だが、話に聞く幽都とは、陰鬱な地の底にあるのではなかったか。ここには日が差している。道行く人たちだって死者とは到底思えない。六太たちだってそうだ。笑う瞳には生気が見て取れる。
もしも真実ここが幽都であるのなら、竹雄たちの言うとおり炭治郎も死んだことになる。だが、炭治郎にそんな覚えはない。だって炭治郎は今、試験の真っ最中だ。必死に呼吸を身につけ、剣の腕を磨いた日々こそが幻だったとでも言うのだろうか。
違う。違う、違う、違う! 炭治郎は首を打ち振った。
狭霧山で過ごした二年近くの月日は、幻などではない。鱗滝や錆兎から受けた厳しい鍛錬。真菰の助言。全部、炭治郎が経験してきたことだ。炭治郎は刀を握ったままの自分の手に視線を落とした。
土をこねて焼き暮らしてきたころよりも、固く傷だらけになった己の手。丹田は熱く燃えている。過ぎた月日の証拠が、ここにある。
もしも、すべてが死にゆく自分が見た夢幻ならば、義勇はどうなる。義勇もまた、夢のなかの人でしかないとでも。
たとえば、扉を開いたあの瞬間に、痛みもなく一瞬で殺されたのだとしたら。可能性は低いがないわけではない。けれどもそれは考えにくい。これは試験だ。敵を倒すのが試験の合否を決めるのならば、戦う余地もなく瞬時に殺されるような罠では意味がない。
悟れぬ未熟さが悪いのだといえなくもないけれど、鱗滝がそんな罠を仕掛けるとは思えなかった。だってそれこそ無意味ではないか。敵の気配は、暗闇のなか微塵も感じられなかった。なにより、義勇の心を取り戻すのに、炭治郎の鼻は必須なのだ。
簡単に殺してしまっては、すべての希望は水泡に帰す。
それに……。
「そうだ……禰豆子っ。禰豆子を人に戻さなくちゃいけないんだ! 戻らなきゃ!」
よしんばここが真実幽都であったとしても、炭治郎は生きている。生きて戻り、旅立たなければならないのだ。禰豆子を人に戻すために。義勇の感情の破片を取り戻すために。