水 天の如し
「ごめん……俺はここにはいられないんだ。禰豆子を助けなくちゃ」
涙を拭い、刀を鞘に納めようとした炭治郎の手が、クスリと笑う声に止まった。
「禰豆子はもう鬼でしょう? 一人で生きていけるわ」
「ッ!!」
信じられない母の言葉と同時に、足に激痛が走った。とっさに見下ろした先にあった光景は、母の言よりも信じがたい。
「六太……っ!」
「兄ちゃんもここにいよう? 死ねばいられるよ」
にこにこと笑う幼い六太の手が、炭治郎の太腿に刃を突き立てていた。匂いも温もりも、炭治郎がよく知る六太のままで。それはまるで、中身がそっくり入れ替わったかのようだった。
「そうだよ。姉ちゃんは鬼になっちゃったから、もうここにはこられないもん。しょうがないじゃん」
「ね、兄ちゃんもみんな一緒がいいでしょ?」
大丈夫、ちゃんと殺してあげるから。
「くっ!」
笑いながら短刀を振りかざした花子に、炭治郎は、突き立てられた刃もそのままに飛び退った。
周囲の人には驚く様子すらない。と、見る間に光景がゆらぎ、建物も人も霞のように消えていった。突然に幕が降ろされたかのように、薄闇が辺りを満たす。
先までの一寸先も見えぬ暗闇ではない。だがなまじ視界が利くのが厄介だ。もはや家族だとは思えぬのに、姿形はやっぱり愛おしい家族のままなのだ。匂いすら本人と変わらない。
けれど、ためらうわけにはいかなかった。
もしも母たちが本人だったとしても、それは肉体だけだ。ここにいるのはみんな、炭治郎の家族ではない。
「俺の家族が禰豆子を見捨てるわけないだろう!」
ビュンっと首筋を掠めた白刃を避け、炭治郎は怒鳴る。竹雄の刃を受け止め跳ね返し、タンッと地を蹴り跳び上がる。周囲はすでに洞窟へと戻っていた。
黄泉で母たちが本当に暮らしているのなら、笑っていてほしいと思う。こんな心ない笑みではなく、貧しくとも互いに慈しみあっていたやさしく朗らかな笑みであってほしい。解放してやれるのが自分だけなら……やらなくては。それが長男である、自分の努めならば。
足に走る激痛よりも、胸が痛い。ごめん。死んでまでまた痛い思いをさせる。胸中で詫びながら、炭治郎は振りかざした刃を六太の頸へと振り下ろした。
悲鳴はなかった。
炭治郎の目にも、涙は浮かばなかった。
返す刀が花子の頸に迫る。せめて。せめて一刀のもとに。ためらうな。苦しみは、一瞬だけでいい。それぐらいしかできないのなら、せめて。
次々に倒れていく家族の亡骸が、ゆらゆらと陽炎のように揺らめき消えていく。
落ちた頸は、みなどこかホッとしたように笑っていた。
母の姿が消えていくのを見つめながら、炭治郎はゆっくりと刀を鞘に収めた。知らずこぼれた息は熱く、掠れている。ひとしずく、頬を涙が伝った。
「……行かなきゃ」
薄闇のなか、炭治郎はふたたび歩き出す。後戻りなどもうできやしない。やさしい夢を見続けることもできない。修羅の道になろうとも、禰豆子を人に戻し義勇の心を取り戻すまでは、立ち止まることなどできないし、したくない。
歩むたびに、刺された足が痛む。身のうちで、消えぬ炎が燃えていた。
「……出てこい。おまえの傀儡は消えた」
鱗滝がどれだけ優れた仙であっても、死者を呼び戻すことはしないだろう。高潔な師は、わざと家族を差し向けるような真似はすまい。ならば、これは誰の仕業なのか。言うまでもない。
鬼だ。
幻惑ではないのは、痛みが教えてくれる。ここに潜む鬼を倒す。きっとそれこそが、本当の試験だ。
クツクツと忍び笑う声がした。薄闇のなか、一段と濃い暗がりから声は聞こえてくる。炭治郎は無言で刀を抜いた。
「傀儡があれだけだと思うたか? 甘い甘い。死者はいくらでもおるわ。次はおまえの父親を呼んでやろうか。それとも友がよいか? 祖母でも祖父でも、おまえが慕っていたものに逢わせてやろうよ。感謝しながらわしに食われるがよいわっ!」
ケタケタと哄笑をひびかせて、暗がりからゆらりと現れた老人が、大きく手を広げた。道士姿の老人は、枯れ木のように細い。しわだらけの顔で赤い瞳だけが爛と光っている。
ゆらりと空気が揺れて、老人と炭治郎の間に立ちはだかるように現れた人に、炭治郎は静かにつぶやいた。
「父さん……」
静かに、けれども強く、怒りの炎が燃える。
言葉もなく襲いかかってくる父の剣を、炭治郎の白刃が受け止める。キィンと高い音がひびき、炭治郎はすぐに飛び退き間合いをとった。次の瞬間、闇がぐんと濃くなった。視界が利かない。けれど焦りはなかった。
ビュンっと空気を切る音がする。振るう刃が起こしたわずかな風が、頬をかすめ、炭治郎はまた一歩飛び退く。懐かしい父の匂いがする。闇のなかでも、見失うことはない。
来る。
目には見えぬまま、炭治郎は、頭上に振り下ろされた父の刀をあやまたず弾き飛ばした。
鬼のいた場所までは目算で二十歩ほどあった。飛び退いた距離、方向、ちゃんとわかる。数えていた。ためらわず炭治郎は身を沈め、父の足を蹴り払うと駆けた。
鬼の姿は見えない。けれども炭治郎は、確信とともに手にした刃を思い切り薙いだ。感じる手応え。捉えた!
炭治郎の剣が振り抜かれるのと同時に、絶叫が闇のなかひびきわたった。
「強くなったな、炭治郎……」
背後から聞こえた密やかな声に、ピクリと炭治郎の肩が揺れる。闇が晴れていく。ゆっくりと振り向いた炭治郎の視線の先で、父は微笑んでいた。
「禰豆子を、頼むぞ」
「……父さんっ!」
思わず駆け寄った炭治郎の手が触れるより先に、父の姿がゆらいだ。懐かしくやさしい微笑みに向かい、炭治郎が強くうなずき返したのを、父はちゃんと見てくれただろうか。痕跡一つ残さずに消えた父に、確かめるすべはない。
「……父さん、母さん。竹雄たちも……約束するよ。必ず禰豆子を人に戻してみせる」
だからどうか、安らかに。
ギュッと目を閉じ、唇を噛みしめて、炭治郎は束の間愛おしい人たちを悼む。どれだけ泣こうと喚こうと、失った人は還らない。悲しみに足を止めて嘆いていても、救える人はいない。
目を開くと、炭治郎はキッと顔を上げた。まだ試験終了の声は聞こえてこない。
ふたたび歩き出した炭治郎の足取りは、痛みを訴えてはいても力強かった。