水 天の如し
◇少年、大いに悩みほのかに恥じるの段◇
洞窟はふたたび闇が続いていた。とはいえ、先のような右も左もわからない真の闇ではない。
うっすら明るさをもたらしている光は、苔だろうか。金緑色のほのかな光は、いかにも淡く頼りない。だが、それでも視界を取り戻すには充分だ。
それでも暗いことに変わりはなく、ゴツゴツとした岩ばかりの洞窟は死角が多い。進むにしたがって、地面も平らなところなどなくなった。
炭治郎はふたたび歩数を数えながら、慎重に足を進めていく。光苔のおかげで壁に手をつけ進む必要はなくなったけれども、進むべき道がわからないのは相変わらずだ。
強く縛り付け止血した足は、呼吸のおかげか、思ったよりも痛くはない。これならばどうにか戦えそうだ。
鱗滝老師の声は聞こえてこない。試験はまだ続いている。
つぎは、なにが出るんだろう。
ふと思った瞬間に、肉を断つ感触が手によみがえり、炭治郎はとっさに口を押さえた。刹那こみ上げた吐き気をどうにかこらえる。震える手には、六太たちや父を斬った感触が、まざまざと残っていた。
「……しっかりしろっ、竈門炭治郎! あれは、父さんたちだけど父さんたちじゃない。操られた……骸だ」
己を叱咤する声は、小さくとも、静寂のなかでは大きくひびく。知らず炭治郎は顔をうつむけた。
初めて、人を斬った。しかも、愛おしく大切な、家族を。
後悔はしていない。操られ心にもない言葉を口にし、炭治郎に刃を向けることなど、誰一人として望んでいなかったはずだ。あのまま鬼の傀儡にしておくなど、できるわけもない。
炭治郎にできたのは、解放してやることだけだ。せめて少しでもつらくないように、痛くないようにと願いながら、頸をはねた。そこに後悔はないのだ。
それでも刀から伝わった感触は、鍛錬とは全然違った。藁束や丸太を斬るのとは、まるで違う、肉や骨の感触。命を断つ、その手応え――。
違う。もう六太たちに命はなかった。丹田で燃える命の火は、とっくに消えている。
だけど。それでも。
「これから先、卑劣な術を使う鬼はきっと出る。これしきで心を折られてどうする。頑張れ、俺! 長男だろ、しっかりしろっ!」
パンッと己の両手で頬を叩き、炭治郎は奥歯を噛みしめ顔を上げた。
うつむいて、立ち止まっていては、なにもつかめない。禰豆子も、義勇も、救えないのだ。望まず鬼にされた人たちだって、このままにしておいていいはずがない。
まさか鱗滝があんな鬼を仕込んだとは思いたくないところだが、それだけ、先の旅路が過酷なのだと知らしめる証左でもある。生半な覚悟では駄目なのだ。
フゥッと一つ息をつき、炭治郎はまっすぐに前を見据えた。広い洞窟を照らし出すには、金緑色に発光する苔だけではとうてい力不足だ。どこかに敵が潜んでいても、視覚で捉えることはむずかしい。
気を抜くな。五感をすべて使って警戒しろ。試験はまだ、終わっていない。
風の流れはいまだ感じなかった。炭治郎の足音以外、音も聞こえない。
おまえを害そうとする敵をすべて倒せ。
試験の内容はそれだけだ。あんな愚劣な鬼を鱗滝が使役しているとは思えないが、だとしたら、鬼の棲家となっていることを理解した上で選ばれた洞窟なのだろうか。鬼は縄張り意識が強く、徒党を組むことはめったにないと教わったが……はて、であればもう鬼はいないということか?
師の狙いなど炭治郎には読みきれない。経験値がまるで違う。
鍛錬ではない命がけの真剣勝負に打ち勝ち、どんな相手と対峙しようとも動じぬ胆力を持つことが、試験の目的だとしたら。不測の事態に応じられる機転も必要だろう。鬼退治の旅にあたって、兼ね備えねばならない必須のものは、あとはなんだ。
唐突に現れた予期せぬ光景、不意打ちで襲いかかってきた家族。今のところすべて乗り越えた。あとは……あとは?
「……長丁場になっても耐えられる体力とか、持久力?」
だとしたら、試験が終わっていないことも納得だ。時の流れも読めぬ状況だが、歩数はずっと数えてきた。さほど時間は経っていないはずだ。
「もしかしたら一日中歩き回らされるとか? うーん、それはそれで地味に厳しいな」
育ち盛りの身だ。空きっ腹を抱えてあてどもなく歩き回るのは、想像するだけで肩が落ちる。
とはいえ、それならばまだしも救いがあると言えなくもない。だからきっと、敵はまだ出る。試験はそんなに甘いものじゃないはずだから。
気を引き締めないと。と、思った刹那、首筋にかすかな風を感じた。
「っ!」
とっさにしゃがみ込み、炭治郎は低い体勢のまま前方へと跳んだ。トンッと手をつき空へと飛び上がると同時に体を捻り、風を生んだ相手へと向き直る。地に足がついたときには、手はすでに抜刀していた。
洞窟は、変わらず暗い。ぼんやりとした金緑色の光では、襲ってきた敵の姿も影になりよく見えない。けれど、見間違えるはずもない。
光苔が発する淡い光を弾いて、白刃がキラリときらめいた。
「……義勇さん?」
かすかに感じる、水のような義勇の匂い。心惹かれ、安堵もすればかき乱されもする、義勇の匂いがする。本物だ。
なんで。と、考えるも無駄だろう。考えるような時間もなかった。
義勇の足が地を蹴ったと思うまもなく、音一つ立てずに義勇の刃が迫ってくる。受け止めた刃が立てたキィンという金属音が、洞窟にひびきわたった。パッと散った火花が一瞬照らし出した義勇の顔に、炭治郎は知らずゴクリと息を呑む。
義勇を倒せば、きっと試験終了だ。
「厳し、すぎだろっ!」
間髪入れずに襲いくる猛攻を、どうにかしのいで、体勢を整えるべく炭治郎は後ろに飛んだ。義勇と錆兎の技量はほぼ同じという話だが、炭治郎は義勇と手合わせしたことがない。義勇の太刀筋を見たのは、出逢ったあの日だけだ。
しかも、錆兎と違って義勇には感情がない。かすかすぎる匂いは常に一定で、隙を匂いで判別するなど無理難題がすぎる。おまけに、感情がないということは、戸惑いなどまるで感じないということだ。
錆兎との手合わせは、そりゃもう厳しかった。鱗滝や真菰だって同様だ。だが、炭治郎に大怪我をさせぬようにだろう、ギリギリの配慮はあった。義勇にそれは、望めない。
炭治郎の予想が正しいなら、体力が尽きるまで戦いきってみせろということだろう。自分が義勇を倒すなど想像すらつかないが、それだけならまだ、どうにか。体力なら自信がある。逃げて逃げて、逃げ切ってみせれば、なんとか。
思う端から、甘い考えは捨てろと、炭治郎は自分を叱咤する。義勇が自分ごときひよっこを、みすみす逃しなどするものか。追いかけっこなら分があるなど、思い上がるんじゃない。
そんなことを考えているあいだにも、義勇の刀は過たず炭治郎の頸を狙ってくる。カァン、ガキィンと、激しい金属音は途絶えることなく洞窟にこだまし、激しく火花が散る。鋭く重い斬撃を受け止める炭治郎の手は、ひどくしびれた。それでも刀はけっして手放さない。というよりも、刀を弾き飛ばされぬようにするだけで精一杯だ。