水 天の如し
目前に迫る義勇の顔は、相変わらず鉄仮面みたいな無表情だ。右、左と素早く打ち掛かる攻撃を受け止めるだけでいっぱいいっぱいな炭治郎と違って、太刀を振るう手には迷いなどみじんもない。一瞬の隙すら見逃さず、躊躇などまるで見せずに襲いくる刃。
でも、これぐらいならもう慣れている。錆兎との手合わせでも、こういう猛攻は多い。
だから、次の手は。
不意にぐっと義勇の長身が沈んだ。と、思うまもなく下からすくい上げるように襲いかかってくる刃を、炭治郎はパッと跳んで避けた。
思ったとおり、猛攻は見せ手だ。本命の太刀は別の方向からくる。錆兎との手合わせでは、よく引っかかった。こちらが思考する余裕がなくなったころに、確実に仕留めるための手に出るのだ。
ここで即反撃に出られるかが勝機の鍵だ。真菰にも錆兎にも言われた。だが。
「早っ!」
炭治郎が反撃に出る隙など、ありゃしない。炭治郎の足が地につくかつかぬかのうちに、義勇は、大きく踏み込むと水平に刀を振り抜いてきた。
間一髪、立てた刀で攻撃を受け止めはしたが、受け切るには体勢が悪い。踏ん張るための足はまだ、地面を踏みしめてすらいなかった。
振り抜かれる勢いそのままに吹っ飛ばされた炭治郎の体が、岩壁へとぶつかる寸前、炭治郎はくるりと空中で体を捻り壁を蹴った。
飛ばされた反動を生かし、射かかる矢のようにまっすぐに義勇へとめがけて跳んだ炭治郎は、グッと刀の柄を握りしめた。構えた刃を、先の義勇のように水平に払う。体に叩き込んだ、水の呼吸からなる剣技、壱の型。だが。
切っ先すら、義勇には、届かなかった。
義勇の体に炭治郎の刀剣が肉迫するより早く、義勇の姿は消えていた。どこに。思う暇などありはしない。空気の流れ、かすかな匂い、探りながら炭治郎はとっさに地面に手をついた。
――上だっ!
悟った瞬間に、炭治郎は腕の屈伸を使い、横へと跳ねる。
真上から振り下ろされた義勇の刃は、もし炭治郎が反応できずにいたなら、頭から竹のように真っ二つにしていたことだろう。義勇は、本気だ。手加減なんて、一切していない。
不測の事態に、思いもよらぬ相手。猛攻を耐え抜くだけの持久力さえも試される、敵。
なるほど、これほど試験に最適な相手もそうはいない。
感情のほとんどを奪われている義勇は、手心を加えることなど考えもしないだろう。命じられるままに、ただ炭治郎を倒すため刃を振るうだけだ。
炭治郎にとっては宿縁の相手であり、恩人でもあるが、義勇からすれば炭治郎など、錆兎たちに対するような親しみの残滓すら持ち得ない。天の定めた縁を義勇とて感じ取りはしただろうが、それだけだ。悲しく、寂しいことだけれど。
試験であるからには炭治郎だって手加減はなしだ。気持ちの上では。
手加減する余裕だってない。そんなことをすれば、肩から上が斬り飛ばされること必至である。手などいっさい抜けない。それは確かなのだけれども。
それでも、炭治郎の手は、足には、一瞬の戸惑いが生じた。だって、義勇だ。前世からの縁で結ばれたという、宿縁の相手。そばにいられるだけで心がふわりと浮き立ったり、胸がキュウッと締めつけられたりもする、そんな人。
母たちは、もうこの世の人ではない。黄泉の国で穏やかに笑いあっていてほしければ、斬るしかなかった。でも、義勇は違う。生きているのだ。感情を奪われ、泣きもせず笑いもせぬ日々を過ごしはしても、食事をし夜がくれば眠る、幼い禰豆子の相手までしてくれる、命の火が燃える生者だ。鬼の傀儡ですらない。
義勇に一太刀食らわせられるなどという思い上がりはないけれど、それでも、万が一に傷を負わせたらと思えば、炭治郎の刀にはわずかな迷いが乗った。
「趣味、悪いっ。そりゃ、義勇さんに勝てたら旅も余裕だろうけど!」
目くらましだろう、義勇が蹴り飛ばした石が、炭治郎の目をめがけて飛んでくる。キィンと高い音と火花を立てて、石を弾き飛ばしたのと同時に、目前に迫った切っ先を避けて炭治郎はしゃがみ込み、下からすくい上げるように刃を振るった。
義勇に倣う形になったが、義勇は、炭治郎のように飛び跳ね逃げることはなかった。背をのけぞらせ紙一重で切っ先を避けるのにあわせ、義勇のつま先が跳ね上がり、炭治郎の手を蹴り上げる。刀がくるくると回転しながら空を飛んだ。
「あっ!」
しまったと思った瞬間、くるりと獨楽(こま)のようにまわった義勇に、炭治郎自身も蹴り飛ばされていた。
受け身を取らなきゃ! 脳裏に浮かぶと同時に、どうにか身を丸め、地面に叩きつけられる衝撃を逃がす。それでも、息はどうしたって詰まった。
どうしよう。刀はどこだ。あった、義勇さんの足元。
甘い! 剣は決して手放すな!
錆兎の叱咤が脳裏にひびく。わかってますっ、ごめんなさい! 胸のうち詫びても時が巻き戻せるはずもなく、刀は義勇の足元に転がっているままだ。あれを取り戻さなきゃ、なにもできない。
でも、手を出すこともできない。たやすく取らせてくれっこないに決まっている。ほんのわずかの隙さえ義勇にはない。
隙を、どうにかして義勇さんに一矢報いる隙きを作らなきゃ。でも、どうやって?
思考と動きは一緒じゃなきゃ駄目だよ。見えた、こう動こう、動くじゃ駄目なの。見えたと同時に動いてる。それが大事。
真菰の言葉がよみがえる。わかってる。わかってるよ、真菰。でも、どうすりゃ義勇さんより素早く動けるのかがわかんないんだよ!
ツッと炭治郎のこめかみから汗が流れ落ちる。衣服は土埃まみれだ。髪一筋さえ乱れたところなどない義勇とは、雲泥の差だった。
見えたときには、もう動いてなきゃいけない。動けるのは、経験があるからだ。考えるまもなく動けるように、いくつも型を覚えて、どんな攻撃にも対処できるよう様々な手を体に叩き込む。実践に基づく義勇の経験値は、炭治郎など比較にもならない。どんな手に出ようとも、義勇は炭治郎の先をいく。
でも。もしも、義勇が一度も受けたことのない攻撃を、しかけられたなら。
あるのか? そんなもの。俺ごときが思いつく攻撃を、義勇さんがかわせないとでも? あるわけない。……本当に?
目で足りないのなら、鼻を使え。
そうだ。義勇さんはそう言った。五感をすべて使えと教えてくれた。でも、どれだけ神経を集中させて義勇の汗の匂いや目の動きまですべて読み取ろうとしても、まだ、足りない。義勇の意表を突かなければ、勝機は見えない。
五感。目や耳は、負けてる。匂いならわかるけれども、義勇の匂いは淡すぎて、隙を読み取るにはいたらない。風の流れを肌で読むのも、義勇に一日の長がある。あとは……あとは、味覚? そんなもの戦いにどう活かせと!? 口を使えってことだとして、感情がない義勇に虚言が通用するとは思えないし、なにより炭治郎は嘘が下手だ。
ほかに、口を使ってすること。口……。
ポンッと、脳裏の片隅にひらめいた手段は、炭治郎自身でさえも、それはないと肩を落としそうになるものだった。だけど、ほかにどんな手があるかと考えたところで、一向にほかの手段など思いつかない。
「あーっ、もう! 義勇さんっ、ごめんなさい!」