水 天の如し
一か八か。駄目なら駄目で、役得かもしれないし。役得って、なんだ。あぁ、もう! 考えるなっ!
タンッと跳んだ炭治郎の攻撃に備えはしても、炭治郎は丸腰だ。どんな手に出るか判断がつきかねたんだろう、義勇は身構えはしたが刀を振るってはこない。徒手空拳で手練の義勇に襲いかかったところで、体術でさえ炭治郎は敵いやしないだろう。だから、殺気や闘気は必要ない。
というか、そんなものをまとってすることじゃない。
伸ばした両手に、刹那、義勇はわずかに身を引いたが、炭治郎の手が背に回るほうが早かった。
あ、よかった。義勇さん、こういうことは経験してないんだ。
一瞬棒立ちになった義勇に、炭治郎の頭に浮かんだのは、そんな愚にもつかぬ安堵だ。
義勇のたくましい背に腕を回し、つま先立って寄せた顔。触れあわせた唇。あぁ、心臓が止まりそうだ。
ドキドキと心臓が高鳴る。こんなこと、炭治郎だってしたことがない。大人になって、いつか心安らげる女の子と出逢い嫁にきてもらえたら、経験するはずだったこと。ぼんやりとした未来は現実味がなくて、俺にはまだ早いやと思っていたのに。こんな、暗い洞窟で戦いのさなかの手段として、初めて誰かと唇をあわせるなど、思いもしなかった。
義勇は動かない。義勇にしても炭治郎がこんなことをしてくるとは、予想外だったのだろう。驚いているわけではないだろうが、次の手を記憶のなか探っているように見えた。
けれどそれも一瞬だ。グイッと炭治郎を突き放そうとした義勇の手より早く、炭治郎の足は己の刀剣を蹴り上げていた。跳ね上がった剣の柄を握りしめた炭治郎の手が、義勇の頸へと迫る。
「そこまで!」
洞窟に大きな声がひびきわたったのは、白刃が義勇の頸に触れる寸前だった。片刃の峰が、義勇の白い頸に触れかけている。義勇の刀は、炭治郎の背に切っ先が触れていた。
スッと、義勇の手がおろされる。無言で刀を鞘に収める姿をぼぅっと見つめたまま、炭治郎も言葉もなく刀をおろした。
終わった。終わったのか? 合格か、不合格か、どっちだ。
ぼんやりと義勇を見上げれば、義勇はいつもの無表情ながらも、心なし不思議そうに唇にそっと指を押し当てている。
あの薄い唇に、触れた。自分の、唇で。
今さらのように炭治郎の顔が真っ赤に染まった。思い返してみれば、ほかに手段が見つからなかったからとはいえ、なんということをしたのだか。
思わず炭治郎はうつむいた。恥ずかしくて義勇の顔が見られない。
「まさか、義勇が相打ちになるとはな」
「ほんと、炭治郎があんな手に出るとは思わなかったぁ」
少し感嘆をにじませた錆兎の声に、コロコロと笑う真菰の声が重なって聞こえ、炭治郎がパッと赤い顔を向けたとたんに、あたりに光が満ちた。
「ふむ、意表を突くのにそんな手を取るとは、さしもの義勇も思いもよらなかったようだな」
呵呵と笑いながらあらわれた鱗滝に、炭治郎はますます熱くなる頬をもてあまし、知らず首をすくめた。
「あの、不意打ちじゃ、駄目でしたか? 試験は……」
「不意打ちも立派な戦術だ。恥じることはない」
「それじゃっ」
思わず身を乗り出した炭治郎に、鱗滝は重々しくうなずいた。
「合格だ」
見まわした錆兎と真菰も、笑みを浮かべてうなずいている。
「や……っ、やったぁ!」
思わず両手を天に突き上げ叫んだ炭治郎に、義勇を除く一同が笑う。
「母さんたちが襲ってきたときはどうしようかと思ったけど、合格できてよかったぁ」
ホッと胸をなでおろして言った炭治郎に、錆兎の眉がピクリと動いた。サッと視線が鱗滝へと向かう。真菰の顔も少し固い。
「老師」
「うむ。炭治郎、母が襲ってきたとは?」
やにわにただよった緊迫感に、炭治郎はちょっぴり呆気にとられつつ、え? と一同を見まわした。
「あの、鬼が……あ、変な町がドーンッて、そしたら六太たちがワーッときてビュンって。でもって鬼が父さんまでボンッて」
「……おまえ、説明下手だな。まぁいい。鬼が出たんだな? で、おまえの家族を傀儡にしてたと、そういうことでいいか?」
「は、はい!」
そう言ってるのに、なんでわざわざ聞き直すのかな。ちょっと首をひねりつつも素直にうなずけば、錆兎たちの顔はますます険しくしかめられた。
「結界が解かれてるな。老師」
「うむ。錆兎、行くぞ」
「はい!」
炭治郎にはもはや目もくれず、鱗滝と錆兎が洞窟の奥へと走り込んでいく。
「え? あ、あの、ちょっと!」
「炭治郎。試験は義勇と戦って、勝てないまでも負けないこと。それだけだよ」
ツンと袖を引いて言う真菰の声にも、常ののどやかさなどまるでない。愛らしい顔にも笑みはなかった。
「え……それじゃ、あの鬼は」
「ここはね、ていうか、狭霧山は全部、鱗滝さんの結界のなかにあるの。炭治郎や錆兎たちは、結界を崩さないように術がかけられてるから出入りできるけど、誰かが入り込むことはできないんだぁ。やってくれるよねぇ。鱗滝さんや私の目をかいくぐるなんて。なめられたもんだわ」
フフッと笑う真菰の声音と細めた目に、炭治郎の背が知らずブルっと震えた。
「試験にしかここは使わないから、ずいぶんほったらかしにしちゃってたんだぁ。だから、こっちにも落ち度はあったんだけどね」
「あの、まだ鬼は出るのかな。俺も行ったほうがいいんじゃ……」
そうだ。震えている場合じゃない。炭治郎が勢い込んで言うと、真菰はいつものようにニコリと笑い、軽く肩をすくめた。
「鱗滝さんと錆兎にまかせておけば大丈夫。それよりも、炭治郎にはすることがあるでしょ?」
「俺に?」
パチリとまばたいた炭治郎に向かって笑んだ真菰の顔は、乳を舐めた猫のように至極ご満悦にも、どこかいたずらめいても見えた。
「合格祝いしなきゃ! ごちそう作らないとでしょ。義勇たちと旅に出たら、長く帰ってこられないんだからね。炭治郎のご飯もしばらく食べられないもん。手伝うからいっぱい作ろっ」
義勇もと、佇む義勇の腕を取り真菰は笑う。
そうだ。合格したなら、とうとう。
「……うん! 義勇さんの好きな鮭も出しますね!」
「よかったねっ、義勇。炭治郎のご飯、おいしいもんね」
コクンとうなずいてくれる義勇から、感情の匂いはやっぱりしてはこない。
でも、いつか。一緒に旅立ち、義勇の感情の破片をすべて取り戻したなら、きっと。
不安はある。足手まといにはならないと決意していても、試験に合格できても、この先の道行きに絶対はない。命がけの旅だ。炭治郎が、禰豆子が、義勇たちの足を引っ張ってしまう場面だってないとは言い切れない。
それでも。
「義勇さん、感情の破片、絶対に取り戻しましょうね!」
笑った炭治郎に、義勇は微笑み返してなどくれない。それでも、小さくうなずいてくれるから。
「よしっ! 腕をふるうぞ! 卓に乗り切らないぐらいいっぱい作りますね!」
「おーっ!」
拳を突き上げる炭治郎と真菰の明るい声が、洞窟に長くこだましていた。