水 天の如し
◇少年、大いなる決意と旅立ちの時の段◇
元宵節まであと二日。明日にはさっそく出立するという晩だ。
炭治郎は、これでもかというほどの料理を卓に乗せるつもりだったが、残念ながら自力では果たせそうになかった。理由は至極単純である。料理をしている途中で、とうとう立っていられなくなったからだ。
「よくまぁ、こんな傷で食材まで探しに行けたねぇ。もっと早くに言えばいいのに」
呆れ声で言われ、炭治郎はいたたまれずに首をすくめた。
「ごめん……。でも、最初はともかく、いつのまにか痛いって感じなくなってたんだ」
だから自分でも、怪我をしたことすら忘れていた。痛みを感じなくなっていて幸いだ。もしも義勇と打ち合っている最中に激痛が襲ってきたのなら、試験に合格するどころではない。下手をすれば、さらなる大怪我を負っていた可能性もある。
「うん、呼吸がきちんとできてた証拠だよ。あのね、極限まで神経を研ぎ澄ませて集中しているときの呼吸は、それなりにいろんなことができるようになるんだぁ。たとえば、血が流れすぎないように体が血の道を塞いだり、痛みを感じづらくなるようにしたり」
「あぁ……それでかぁ。義勇さんと戦ってるとき、今まで感じたことがないぐらい集中してた気がするから」
「そう。その状態を、私達は全集中の呼吸って呼んでるの。錆兎や義勇は、その呼吸を寝ているときも続けてるよ。全集中常中っていうの。全集中の呼吸ができれば、身体能力を鬼と同じぐらいにあげることができるんだぁ。でも一瞬だけじゃ困るでしょ? だから、常中を続けて基本的な身体能力を活性化する。それができてはじめて、呼吸を極めることができるようになるの。炭治郎も常中できるようにならないとね」
料理の続きを請け負ってくれた真菰が、鍋をかきまぜながら振り返り、クフンと笑った。
真菰の声音は実にこともなげで、いともたやすく習得できそうに思えてしまうぐらいだ。だが、炭治郎はちゃんと知っている。真菰の言う全集中常中が、どんなに困難なのかを。
「寝てるときも呼吸を続けろとは言われたけど……あんな苦しい呼吸を、どうやったら寝ていても続けられるのかなぁ」
仙人式の呼吸でさえ、まったく意識のない睡眠中に呼吸を意識しろなんて、無茶苦茶だと思ったものだ。全集中も、戦っている最中にはそれどころじゃなかったけれど、思い返せば相当つらかった。
なにせ、五感すべてを研ぎ澄まし、体中の筋肉という筋肉、骨という骨がきしみをあげるほどに、極限まで力をみなぎらせるのである。
試験に合格し、ようやく旅立てることに浮かれているうちは意識しなかった呼吸も、料理に精を出しているうちに限界がきた。突然カハッと咳き込むなり、炭治郎の太ももには激痛が走り、立っていることすらままならなくなったのだ。
全集中は、体の機動力をあげもするが、意識せぬまま抜き差しならぬところまで体を酷使してしまいもする。体のほうが呼吸についていけず、結果として炭治郎のように限界がくるようだ。
六太に刺された傷は深かった。それでも、今はさして痛みはない。鱗滝が調合する仙薬は、本当によく効く。念のためおとなしくしてなさいと、真菰が調理を買ってでなければ、炭治郎はすぐにも竈の前に復帰したことだろう。
「んー、やっぱり慣れじゃない? あとは、呼吸に耐えられるだけの基礎体力。たくさんの水を入れようとしても、小さな器じゃあふれちゃうでしょ? 器をまずは大きくしなくちゃね。炭治郎はもう、かなりいいところまでできてるから、大丈夫だよ。だって私が教えてきたんだもん」
「うん、ありがとう。真菰が丁寧に教えてくれなかったら、呼吸もできないままだったかも。でも、慣れるのはむずかしそうだなぁ。がんばるけど、寝てるうちにやめちゃっても自分じゃわからないから」
意欲は炭治郎だってあるのだ。これができなければ鬼の始祖、鬼舞辻無惨どころか、強い鬼にはとうてい敵わないと言われれば、必ずできるようにならねばと奮い立ちもする。
だが、意気込みだけではどうにもならないことだってある。これまでは定住しての鍛錬だったが、明日からは旅の空の下での寝起きとなる。鍛錬は続けるが、今までのように鍛錬だけに集中することはむずかしそうだ。
「安心しろ。常中がとけたら、俺がみぞおちに一発くれてやる」
剣呑な一言が聞こえ、炭治郎はとっさに亀の子のように首をすくめた。
「錆兎、おかえりぃ。どうだった?」
「それなら絶対にわかるだろうけど、次の日動けなくなりそう……。あ、鱗滝老師はまだ洞窟ですか?」
真菰とそろって炭治郎が顔を向けた先で、錆兎が小さく肯首した。端正な顔に疲れは見えないが、それでもわずかに寄った眉は苦々しげである。かすかに憂いをたたえているようでもあった。
「あぁ。結界に、ほんの少しだがほころびがあってな。塞ぐついでに結界を強化しておくそうだ。ほかの鬼が入り込んだ痕跡はないが、万が一があるからな」
言いながら房に入るなり、錆兎はドカリと椅子に腰を下ろした。長く吐き出された息に、炭治郎の眉尻がちょっぴり下がる。
見た目よりもずっと、錆兎も疲れているのかもしれない。洞窟がはたしてどれだけ広いのかはわからないけれど、きっと見回るだけでも一苦労だっただろう。残りの料理は真菰に任せると了承させられたが、茶を淹れるぐらいはいいよなと立ち上がり、炭治郎は炉炭に向かった。足の痛みは先よりもずっと薄れていた。
「義勇は? 真菰、一緒に帰ったんだろ?」
「禰豆子ちゃんの子守してるよぉ。昨日義勇が作ってあげた空竹(コンジュー/中国コマ)、すっごく気に入ったみたい。義勇に回してってせがんでたから、まだ遊んでるんじゃないかなぁ」
「あぁ、義勇は手先だけは器用だからな」
また鍋に向かい振り返ることなく言う真菰に、気にした様子もなく錆兎は卓に頬杖をつくと、フッと顔をほころばせた。
「そうなんですか? っていうか、手先だけって……義勇さん、なんでもできそうなのになぁ」
淹れた薄緑色の餅茶を差し出しながら、炭治郎がなにげなく言うと、錆兎の顔に少しだけ愉快げな苦笑が浮かんだ。
「たしかに。でも、とんでもなく口下手だし、なによりも生き方が不器用だ……義勇は人におもねることができないからな。嘘もつけないし、星見を継いでも国司になっても、それなりに苦労続きだっただろうさ」
だから、自由に過ごせる今がいい――とは、かけらも思ってはいない口調と顔つきだったが、錆兎の灰藤色の瞳を見るに、いくらかは本心であるのが窺えた。
感情を失い、喜びも悲しみも感じられなくなった義勇の現状を、口先だけの戯言であれ、よかったなどとはけっして錆兎は口にしやしないだろう。義勇の身に降りかかった災厄を誰よりも憂い、そんな境遇に貶めた無惨への憤怒を誰よりも抱えているのは、錆兎だ。
それでも、子供のころと同じく傍らに立ち同じ道を進める今への愛おしさもまた、錆兎の心のほんの片隅には息づいているのだろう。義勇が星見を継いでいたとしたら、錆兎とは立場を違え、進む道は分かたれていたはずだ。今のように星月夜の下、同じ天幕で眠り、ともに背を合わせて戦うなど、けっしてありえなかったに違いない。