水 天の如し
戦争だからしかたがない。そんな諦めとともに、炭治郎の「殺さない」という決意を誇り笑ってくれるならいいけれど、誰をも恨まずいられるか……炭治郎を手に掛けた相手に、しょうがないと笑えるのか。もしも竹雄が、茂や六太が、同じ目に遭ったとしたら、自分は笑えるのか。
命がけの戦いが生むものは、勝利と敗北だけではない。どちらにも死者はあり、どちらにも恨みが生まれる。悲しみが人の心を占める。無邪気に喜べる自分で在りたくないと、炭治郎は苦く笑った。
義勇も、同じなんじゃないだろうか。
せめて、正々堂々と。恥じるものは少なく、一生後悔を抱えるのならばせめて、どんな命も軽んじることないように。せめて、残された者の恨まずにいられぬ心が、少しでも軽くいられるように。不甲斐なく怪我を負いあっけなく殺されたなど、誰にも言わせぬ戦死の報が、遺族に届くようにと、心のどこかで願って剣を振るう。そんな気がした。
そんな感情は、もちろん、今の義勇にはありえない。それでもきっと、心に残る感情の残滓が、義勇に命じたのだと炭治郎は思った。正々堂々、自分も相手もけっして恥じぬ戦いをと。高潔で情深い義勇の本質は、たとえ心のほとんどを失おうとも、戦いの手を緩めることも炭治郎の傷を執拗に狙うこともさせなかったに違いない。
こんなにも、やさしく思いやり深い人なのに。剣を握ることすら厭うていたという、戦いを嫌っていただろう人なのに。
母や竹雄たちの命を奪い、禰豆子を鬼に変え……義勇の感情をも奪った、鬼という生き物。すべての元凶、鬼舞辻無惨。
許すものか。けっして。
誰も恨みたくなどない。そんな思いは変わらずとも、無惨だけは許せなかった。
六太を、茂や花子たちの頸を、己で刎ねた感触が、炭治郎の手に腕に全身に、よみがえる。その一瞬の感触と苦しみを、一生、炭治郎は忘れることはないだろう。たとえそれがみんなを救うことになろうとも。誰も炭治郎を恨まず、安堵してくれていてくれたとしても。
忘れぬまま、炭治郎は鬼を狩り続ける決意を、心に燃やす。人の命を、幸せを、軽んじ笑う者への刃を振るう日々への、覚悟を抱く。そしていつか、無惨の頸を。悲劇を生み出す元凶を、必ず討つのだ。
二度と誰も鬼のせいで泣かぬようにと。自分と同じ思いを、誰も抱かぬようにと。
そのための二年。それだけを願う、鍛錬の日々だった。そうして、明日の朝には旅立ちの時がくる。
知らず武者震いした炭治郎の腕のなかで、禰豆子が不意に身じろいだ。
「むぅ?」
スンッと鼻をうごめかせた禰豆子が、気遣わしげに眉を寄せたのに気づき、炭治郎はあわてて笑みを向けた。
「あぁ、うん。ちょっと油断しちゃってさ。でも心配しなくても大丈夫だぞ? 真菰にもらった薬で、怪我はもうなんともないから」
やさしく頭を撫でてやっても、やっぱり禰豆子は、むぅむぅと身をよじり、炭治郎の膝からポンッと降りてしまった。
「むー、むぅむぅっ」
小さな手のひらで、禰豆子は、炭治郎が負った傷をそろそろと撫でてくる。癒そうとするかのように。口枷のせいで言葉を交わすことはできずとも、禰豆子の思い遣りは幼い仕草や表情から如実に伝わり、じわりと炭治郎の目に涙が浮かんだ。
「……人食いの本能を封じられているとはいえ、本当にその子は鬼らしくないな。血の匂いなんぞ嗅げば、よだれを垂らしてたちまちかじりついてもおかしくないってのに」
錆兎の苦笑は、感慨深げだ。皮肉ではない素直な感嘆がそこにはあった。炭治郎が胸を張るより早く、フフンと自慢気に真菰が笑う。
「だから、禰豆子ちゃんは大丈夫って言ったでしょ。禰豆子ちゃんは鬼の血になんか負けない、強い子だよって」
「真菰が威張ることじゃないだろ。でも、そのとおりだな。これなら連れて行っても大丈夫そうだ。炭治郎も義勇に一撃入れられるぐらい強くなったし、最悪の場合でも自力で活路を見いだせるだけの力はついてるみたいだからな。万が一が起きても、なんとかなるだろ」
二人の会話に、炭治郎の目が見開く。キョトンと見上げてくる禰豆子に、とうとう涙がポロリとこぼれ落ちた。
「よかったなぁ、禰豆子! 一緒に行けるぞ!」
「むぅ?」
「うんっ、ずっと兄ちゃんと一緒だ。兄ちゃん、絶対におまえを守るからな。必ず人に戻してやるからっ」
かがみ込み夢中で抱きしめれば、禰豆子はわかっているのかいないのか、ニコニコと笑って細い腕で抱きしめ返してくれる。
鬼となった禰豆子をともに連れて行くことに、不安は少なからず炭治郎にもあった。そもそもそんなことを錆兎たちが許してくれるのか。そちらのほうが気がかりでもあった。
物見遊山の旅ではないのだ。戦いとなれば血が流れる。禰豆子の封印された鬼の本能が、炭治郎たちの血の匂いで目覚めないともかぎらない。
けれども、禰豆子は自分自身の行動で、いまだ警戒を解ききらない錆兎さえをも納得させたのだ。
人としての禰豆子は、炭治郎の自慢の妹だった。誰もがそれも当然と笑ってくれた。けれども鬼となってしまった今、人は禰豆子を恐れるだろう。誰もみな、禰豆子の持つ本来のやさしさや倫理観の強さなど、見てくれないに違いない。
見た目の愛らしさはともあれ、禰豆子は本当だったら、人を襲い食らうのだ。そうしなければ生きられないはずだった。だからまだ、不安は消えない。
禰豆子を本心からかわいがってくれても、真菰や鱗滝は仙だ。人ではない。襲われ食われる可能性は、市井の人と変わらずとも、自衛の術を身に着けている。けれどもただの人ではそうはいかない。ひとたび禰豆子が本性のままに襲いかかれば、ひとたまりもないだろう。
万が一、炭治郎が禰豆子を抑えきれなければ、錆兎は躊躇なく禰豆子を斬る。たとえ禰豆子自身への愛着や親愛が生まれていようとも、人を襲う鬼を錆兎はけっして許さない。
それはきっと、義勇とて同じだ。感情のない義勇は、鬼を倒すことを優先させるだろう。そしていずれ苦しむのだ。いつか感情を取り戻したときに、きっと義勇は悔恨に打ちのめされる。理性ではしかたのないことと割り切れても、義勇が本来持つこまやかな慈愛の心は、自身を責めるに違いなかった。
だからこそ、炭治郎は悩んでいたのだ。はたして禰豆子を旅に連れていけるのかと。
当然のことながら、不安がすべて消えたわけではない。鱗滝の術を信じてはいるが、絶対ではないとも言われている。当たり前だ。それは生き物の本質を捻じ曲げることと同義なのだ。生半可な術ではない。
最悪の場合を常に考えておけと、鱗滝には言われている。となれば、錆兎が危惧し禰豆子を連れ歩くことに疑義を唱えるのも、しかたのないことだ。そして、錆兎が反対ならば、炭治郎には異を申し立てるだけの力もないし、安全を立証するすべもなかった。
けれど、錆兎も認めてくれたのだ。鬼になっても消えぬ禰豆子のやさしさを。炭治郎の決意と実力を。
「人を食べないだけじゃないもーん。ねぇ、禰豆子ちゃん? 私と一緒にがんばったもんねー」
「む? むぅっ!」
笑って禰豆子の顔を覗き込んできた真菰に、キョトッとまばたきした禰豆子が、勇ましく小さな拳を振り上げた。
「え? 禰豆子、なにかしてたのか?」