水 天の如し
雪の積もる山の冷気は厳しい。外套一枚脱いだだけでも、芯から凍りつく心地がするほどに。
ようやく与えられた思い遣りに、惨劇を目撃して以来初めて、炭治郎の胸に温かなものが満ちた。
「あの……ありがとうございます、義勇さん」
感謝に胸を詰まらせ言っても、義勇は振り返りもしなかった。天幕の杭を打ちつける手を止めもしない。
「あ、俺も手伝います!」
外套にくるまれた禰豆子に、ちょっと待っててくれなとやさしく声をかけ、炭治郎は義勇の傍らへと走り寄った。
手伝うと声をかけたものの、義勇は炭治郎を見もしないし、指示を口にするわけでもない。どうすればと戸惑う炭治郎に、助け舟を出してくれたのは錆兎だった。
「そこの紐を杭に結びつけてくれ。義勇が打ったやつ全部にだ」
「わかりました!」
やるべきことを示され、ホッとする。おびただしい血も、家族の凍りついた亡骸も、すべてが温かな日常からはかけ離れていて、混乱はいまだやまない。そんななかで自分にもできることがあるというのは、こんなにも安堵するのか。
野営などしたことがないが、することは日ごろ家で行うこまごまとした雑事と大差はない。天幕の裾から伸びる頑健な紐を、杭へとしっかりと結んでいく。ただそれだけの行為は、まるで日常の延長線上にあるかのようで、少しずつ心が落ち着いていくのを炭治郎は感じた。
とはいえど、この事態が異常であることに違いはない。禰豆子が目を覚ます気配はいまだにないし、義勇と錆兎の素性だってまるきりわからないままなのだ。
それでも、今はこの二人に従うより、炭治郎に選べるものはなかった。二人が口にした言葉の真意も、炭治郎がただ一人で考えたところで、てんでわかりはしないだろう。鬼とはなんだ。禰豆子を日光に晒したら死ぬとは、いったいどういうことなんだ。わからないことばかりだ。
疑問が頭をめぐる。だが作業中の今は、二人が答えてくれるとは思えなかった。それに禰豆子の寝息はしっかりとしていたし、表情も穏やかだった。怪我はもしかしたら深くはないのかもしれない。ならば、早く野営の支度を済ませるのが先決だ。暖かな外套にくるまれているとはいえ、傷をおった身を雪の上に横たえていては、治るものも治らないだろう。もちろん怪我がなくとも、炭治郎は禰豆子にそんな仕打ちをしたくはない。
禰豆子を一刻も早く暖かな場所へ。その一心でせっせと錆兎の指示に従ううちに、野営の準備は終わったようだ。天幕は簡素で飾り気がない。だが、目にしたことのある国軍の野営光景とくらべると、なんとなく違うような気もする。
天幕の大きさは、もちろん異なる。軍のものは数人で使用するのか、炭治郎たちが設置したものよりもだいぶ大きかった。けれども違和感はそういったことではなく……。
「あ、これ、義勇さんたちの外套と同じ柄だ」
そうだ。違和感の正体はこれだ。炭治郎は視線を落とした天幕の裾に、合点がいったと誰にともなくうなずいた。
軍隊の天幕には、旗は立つが文様などない。けれどもこの天幕は、波濤のような文様が描かれている。禰豆子に貸してもらっている義勇の外套や、おそろいの錆兎の外套にも、裾に同じ柄が描かれていた。
衣服と天幕を揃いでしつらえるような酔狂な真似は、聞いたことがない。陣営に洒落めかした文様など入れてどうする。戦時にそんな雅やかさなど必要なかろう。歴史のなかではそんな洒落者な将軍もいたかもしれないが、少なくとも炭治郎が目にしたことのある陣営には、そんなものはなかった。
そこでふたたび疑問が湧いた。
この二人は、本当に何者なんだろう。二人の出で立ちは、一見すると帯刀も相まって軍人のように見える。だが、きっと軍とは無関係だ。少なくとも、将軍格ではありえない。こんな天幕を使用することが許される軍人は、少なくとも千人将以上でなければならないだろうが、だとすると、またおかしなことになる。寛三郎の存在だ。
将軍の軍馬が老いていては、話にならない。戦場を駆け抜けるのに、老馬では役に立たないだろう。それに、そもそも軍人がこんな辺鄙な山へとやってくる道理がない。国境に面した山ならば、外敵の侵入に備えて警邏の必要はもちろんある。けれどもこの山は、軍備の必要があるような位置にはないのだ。
「厄除の文様だからな。師のお手製だ」
炭治郎のつぶやきを聞きつけたのだろう。答えた声はまたもや錆兎だ。追いついてからというもの、炭治郎は義勇の声をとんと聞いていない。
義勇はずいぶんと寡黙な人なのだろう。静かなのは表情や佇まいもだ。およそ感情というものを義勇はまるで示さない。礼を言われようと食ってかかられようと、義勇はいっさい反応しなかった。かろうじて錆兎とならば会話らしきものは成り立つようだが、炭治郎に対しては無関心を貫いているように見える。思った瞬間、炭治郎の胸がツキリと痛んだ。
きっとやさしい人だと思うんだけどな……でも。
ふと義勇が天幕から離れた。大股に向かう先は禰豆子のもとだ。
「お、俺が! 俺が運びます!」
あわてて炭治郎は義勇を追い越し、禰豆子を腕に抱えた。悪い人たちではないのだろう。嫌な匂いは二人からはまるでしない。けれどもまだ、心から信用するのは怖かった。なにせ錆兎は禰豆子を殺すようなことを口にしているのだ。
義勇は禰豆子を自分の外套で包み込んでくれたのだから、触れないでくれと拒むのは今さらだろうと思いはする。こんな態度は恩人に対して不適切だとの申しわけなさも湧いた。それでもやっぱり、不安のほうが大きかった。
思わず睨むように強くなった炭治郎の視線にも、義勇はなにも言わなかった。玲瓏な顔には、不快感の色もない。
炭治郎の声に足を止め、義勇はまたくるりと背を向けた。ふたたび天幕へと歩んでいく義勇に、炭治郎の肩から力が抜ける。
錆兎は二人のやり取りを黙って見ていた。視線に気づき炭治郎が顔を向けたとたんに、言葉もなく錆兎の顔もそむけられた。そのままやはり天幕へと歩を進めた錆兎は、入り口で一度だけちらりと炭治郎に視線を投げてきた。
「話はなかでだ。そろそろまた雪が降り出しそうだからな」
「あ、はい」
あわてて禰豆子を外套ごと抱え上げ、炭治郎も天幕へと入る。天幕のなかはガランとしていた。目立つ荷は見当たらない。表に繋がれている馬たちの背にも、荷はなかった。二人は旅をしているのかもと思ったが、それにしては軽装すぎる。二人きりとはいえ、こんな天幕を持参しているぐらいだ。もっと大仰な荷物があってもおかしくはないのに。
だが、炭治郎はさほど深くは考えなかった。馬は二頭きりだ。しかも一頭は老馬だという。ならば荷は少ないほうがいいのだろう。あんまり大荷物では馬たちがかわいそうだ。
なかではすでに義勇が火をおこしていた。湯を沸かしているのだろうか。雪を詰められ火にかけられた小さな青銅の鼎(かなえ)は、ずいぶんと古いもののように見えた。それも当然だろう。鼎を使う家など、めったにない。はるか昔には煮炊きに使われることも多かったと聞くが、宗廟にある祭事の儀式に使われる大鼎ぐらいしか、炭治郎とて見たことはなかった。こんな時代物を旅時に携帯するのはなんだか不自然だ。それに。