水 天の如し
現在の王朝となって以来、国は年ごとに領土を広めてきたのだと炭治郎は教えられている。長い治世のすえに、今では大陸一の大国となっているとは、誰もが知る事実だ。とくに、現大王の治世は大人たちがつとに褒め称えるところである。いくらかある自治領の領主たちも、大王さまをたいそう敬愛しているそうで、内乱が起きる可能性はないと聞く。外交にも問題なく、他国との関係は良好らしい。
戦火など知らぬまま、炭治郎は日々暮らし、やがて定められた人生を終えるだろう。兵役に取られても、国境の見回りをして任期は過ぎる。居丈高に守ってやっていると偉ぶる軍人だって、実際に戦を知る者はそう多くはないはずだ。幸いなことだ。偉大な大王さまに炭治郎は感謝していた。
たとえ敵国の軍人だろうと、炭治郎は、自分が人を殺すことなど考えたくもない。剣など握らず生きられれば、それに越したことはなかった。
もしも自分が次男に生まれていたのなら、栄達を望むには軍に入るよりなかったろう。けれどもたとえ長男でなかったとしても、炭治郎は自分が軍人となる図など想像もできなかった。人を傷つけるなど、自分に耐えられるとはとうてい思えない。
侵略など、噂の域を越えねばいい。人に向かって剣や槍を振るうことなど、一度もなく人生を過ごしたい。きっと偉大な大王さまは、こんな辺境の村まで戦火に焼かれる事態にならぬよう、心砕いてくださるだろう。そう思っていた。
「噂は聞きました。でも、それが今回のこととなんの関わりがあるんですか? あれは……人じゃないんでしょう?」
よしんば異民族の侵略が事実だとしても、あくまでも襲ってくるのは人だ。敵国の民だろうとも、炭治郎と同じように飯を食い、働き、家族と笑いあって暮らす、人なのだ。だが。
炭治郎は我知らずグッと眉間にシワを刻み、唇を噛んだ。
あの怪物は、違う。あれは人ではなかった。そんな話は都でさえも聞いていない。
あんな化け物が襲ってくるのであれば、人々が黙っていられるはずがない。侵略してくる、人を喰う民族。噂はそこまでだ。噂の異民族があの化け物なのであれば、恐ろしい外見についてもみな膾炙(かいしゃ)しているだろう。たとえ箝口令がしかれているのだとしても、人の口に戸は立てられない。
「あぁ。あれは鬼だ。もう人じゃない」
錆兎の声は静かだったが、どことなし怒りがにじんでいた。言葉の意味を悟り、炭治郎の背がゾクリと震える。
「もう? じゃああれは……元は、人ですか? たしか道術にそんな術があるって……」
「僵尸(キョンシー)か。別物だな。僵尸はあくまでも死者の肉体だけが動く。魂(こん)はあっても魄(はく)はすでに冥府だ。生きているわけじゃないし、そこに意思はない。だが鬼は違う。夜行性で日に当たると燃えたり、人を食ったりするのは同じだが、さらに厄介な奴らだ」
「日に当たれば……」
とっさに炭治郎が、寝かされたままの禰豆子へと視線をやったのは当然だろう。錆兎は言っていたではないか、禰豆子は日に当たれば、死ぬと。
では、禰豆子は。
ドクドクと心臓が騒がしい。火がたかれた天幕のなかは暖かいのに、体の震えが止まらなかった。
「鬼って……なんなんですか? 禰豆子はっ! 禰豆子はどうすれば助かるんですか!?」
聞くのは怖い。禰豆子があんな恐ろしい化け物になるなど、考えたくもない。けれど、知らなければなにもできないのだ。どんなに恐ろしい運命が待ち構えていようとも、禰豆子を救う以外、炭治郎が選ぶべき道はない。
「それは、俺らの師である鱗滝老師ですら、知らない。きっと大王や三省六部の諸官たちも知らないだろうな。玉皇上帝か釈迦尊、はたまた白澤神なら、もしかしたらご存知かもしれないが、さて、どこにおわすのかさえ俺は知らん」
「そんな……」
ただ神や仏に祈れと言うのか。なす術などないと、諦めろと言いたいのか。
血の気が失せた炭治郎の顔を見るともなしに眺めていた義勇が、口を開いた。
「始祖を問い質す」
「始祖?」
誰のことだ。その者ならばなにか手立てを知っているのだろうか。オウム返しに口にして、炭治郎は義勇に向かって身を乗り出したが、義勇はそれきりまた口をつぐんでしまった。おもむろに立ち上がり、椀を重ね持つと無言のまま天幕を出ようとさえする。
「ぎ、義勇さん?」
「あぁ、片付けさせて悪いな、義勇」
錆兎の礼にコクリと義勇がうなずくにいたって、炭治郎はようやく、義勇が椀を雪で清めようとしていることに気づいた。この場において一番の下っ端は自分だ。義勇にやらせるわけにはいかないと、炭治郎も慌てて立ち上がろうとした。
「俺がやりますからっ」
かけた声はあくまでも下手に出ているようにひびいたろう。けれども、炭治郎の胸のうちには、少しばかりの寂しさやら苛立ちやらがあった。
炭治郎の問いかけに、義勇は答えてくれない。炭治郎と会話するなど、時間の無駄だとでも思われているのかもしれなかった。無知で家族の仇を打つこともできぬ惨めな小倅。そんなふうに思われていたとしたら、腹も立つし、それ以上になぜだか悲しい。
だが、義勇はまた声をかけてくれた。
「おまえは錆兎の話を聞け」
「義勇の言うとおりだ。食器を片付けるより、おまえには大事なことがあるだろう? それに時間がない。じきに、夜が来る……鬼の時間だ」
言って、錆兎は視線を外套にくるまれた禰豆子へと、スッと移した。その視線に、続くはずの言葉を炭治郎は悟る。義勇の返答があったことを喜ぶ暇(いとま)などわずかにもない。
「鬼の、時間」
「目覚めてからじゃ遅い。その前に進むべき道を決めろ」
禰豆子は、鬼になる。それはもはや覆せぬ事実なのだろう。夜は鬼の時間。ならば、夜の訪れとともに禰豆子は目覚めるのかもしれない。
鬼として。
「俺の進む道なんて、最初から決まってます」
炭治郎は、焼き物職人の家の、長男として生まれた。人生はその時点で定められていた。職人の家に生まれたからには、ほかの職は選べない。父の跡を継ぎ、土を捏ね陶磁器を焼く。嫁を得て子をなし、次に繋ぐ。ただそれだけの人生だ。それが自分の運命だと炭治郎は思っていた。
だが、もはやそんな貧しくとも穏やかな人生は、望めない。選びたくもない。
禰豆子を、救う。それ以外には、炭治郎に進むべき道はないのだ。
たとえそれが、困難を極め、涙と血に濡れる道であろうとも。
たとえ異形の怪物であろうと、元は人だという命を、自らの手で絶つことになろうとも。
それは、己の身こそを切り裂く如くに、つらいことだろうけれど。
決意を込めて言い切った炭治郎に、錆兎はわずかに片頬をゆがめて笑い、天幕の出口で、義勇は一度だけ振り返った。
その眼差しはやはりなにも伝えてはくれなかったが、その瞳が、宝玉よりも美しい瑠璃色をしていることに炭治郎は気づいた。一瞬だけ見惚れた炭治郎に、すぐに義勇は関心を失ったように天幕を出ていく。取り付く島もない。
けれどもただ一度、瑠璃の瞳にかすかに悼ましげな光が見て取れた気が、炭治郎にはした。