真白の雲と君との奇跡
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義勇がやってきた翌日、杏寿郎は初めて、義勇に電話することにした。
廊下に置いてある家の電話でだ。中学生にはまだ早いとの煉獄家の教育方針で、杏寿郎はスマホを持っていない。義勇がスマホを持っているのかも知らなかった。保護者に渡された連絡網に書かれた義勇の連絡先は、鱗滝家のものだ。
友達に電話するぐらい、杏寿郎だって何度もしている。緊張したことなんて一度もない。けれども初めて義勇と電話で話すのだと思うと、なぜだか妙に緊張してしかたがなかった。電話しなければと廊下に出たのはいいが、十分ほども立ちつくし電話を睨みつけている始末だ。
だが、迷ってばかりもいられない。電話は絶対にしなければならないのだ。石拾いに千寿郎を同行させていいか、確認は必要なのだから。
なにしろ目的地までは電車で一時間半ほどもかかる。幼児を連れての遠出となれば、義勇だって心構えがいるだろう。もしかしたら断られる可能性だってあるのだ。
約束の日付は土曜。今日は木曜日だ。前日にいきなりでは義勇も困るかもしれない。是が非でも今日中に義勇に確認しなければならないだろう。
意を決して電話したものの、呼び出し音が鳴っているあいだ中、杏寿郎の胸は早鐘のように騒がしかった。はい、と声が聞こえた瞬間に、「もしもし、鱗滝さんのお宅でしょうか」と急いて言った声は上ずっていたかもしれない。
電話に出たのは錆兎の母親らしかった。いや、もしかしたら姉か妹だろうか。声の印象は明るく若々しい。姉妹がいるという話は聞いたことがないが、そういう人がいてもおかしくはない。
義勇くんはいらっしゃいますかとたずねた杏寿郎に、受話器から聞こえる女性の声が、ぐんと明るさを増した。
『もしかして煉獄くん? 煉獄杏寿郎くんでしょ!』
「はい。名乗るのが遅れ、申し訳ありません。義勇くんのクラスメイトの煉獄杏寿郎と申します。お忙しいところすみませんが、義勇くんにお取次ぎいただけますでしょうか」
母から電話の応対についても常日頃ちゃんと教わっていたのに、緊張と焦りでつい不調法な真似をしてしまった。内心ほぞを噛んだ杏寿郎だったが、電話口の女性はアハハと明るく笑う。
『錆兎や義勇から聞いてるとおりだねぇ。ちょっと待ってね。義勇、電話だよぉ! 大好きな杏寿郎くんからぁ!』
聞こえてきた声に、ドキンと心臓が跳ねた。
大好きな杏寿郎くん。義勇はいつも家でそんなふうに、俺のことを話してくれているのか。
カァッと顔に熱が集まって、杏寿郎は、ソワソワと視線をさまよわせた。鼓動が暴れ回って、比較的涼しい廊下にいるというのに、体の熱はどんどん上がっていく。気温よりも自分の顔のほうが、よっぽど熱くなっているに違いない。
『真菰っ、なんでおまえが電話に出てるんだ』
『手が離せないから真菰ちゃん出てって、おばさんに言われたんだもーん。ホラ、杏寿郎くん待ってるよ』
バタバタとした物音につづいて受話器から聞こえてきた義勇の声に、また杏寿郎の鼓動が跳ねる。けれど、ゆだりそうだった頭はスッと冷えていた。
『もしもし、杏寿郎?』
少し焦った声が聞こえてくる。義勇があわてる声なんて、学校では聞いたことがない。表情もいつもとは違うんだろうか。電話なのをちょっぴり残念に思うけれども、それよりも、ザワザワモヤモヤと心が落ち着かなくて、杏寿郎の声はいつもより少し低くなった。
「うん。その、いきなり電話してすまない」
『かまわない。なにか用か? 週末のこと?』
「あ、あぁ。千寿郎がな、一緒に行きたいと言ってるんだが……大丈夫だろうか」
そう、電話の目的はこれだ。けれども今、本当に聞きたいことは別にある。
『遠いんだろう? 千寿郎くんがつらくなければ俺はかまわないが……あの、でも、あんまりおしゃべりとかしてやれる自信がない。俺と一緒じゃ千寿郎くんが退屈しないか?』
常よりも義勇の口数が多い。電話だからだろうか。一方通行で話しかけるばかりのいつもの会話と違って、義勇がたくさんしゃべってくれるのがうれしい。けれど、さっき聞こえた会話が気になって、心が浮き立ってくる気配はなかった。杏寿郎は知らず受話器を握る手に力を込めた。
「それは大丈夫だ。千寿郎も君のことをとても気に入っている。昨日だって、君のことばかり話していた」
『そうか。それならいい』
ホッとした気配が受話器から伝わってくる。了承してもらえて安堵しているのは杏寿郎なはずなのに、義勇の声のほうがよっぽど一安心しているように感じた。
なんだかちょっとおかしいなと、いつもだったら迷いなく笑っただろう。もっと義勇の声が聞きたいとおどけてみせたりもしたかもしれない。なのに、次の言葉は全然出てこなかった。
気になるなら聞いてみればいいのだ。電話に出たのは誰だ、と。聞いたところで問題はないはずだ。他愛ない世間話と変わらない。なのになぜだか無性に、聞くのが怖かった。
『……杏寿郎?』
黙り込んでしまった杏寿郎を訝しんでいるのだろう。義勇の声は怪訝そうだ。少し心配そうにも聞こえる。不安がらせたくなどないのに、やけに喉が渇いて声が出なかった。
『真菰がなにか失礼なことを言ったか? その、なにを言われたのかわからないが、気にしないでくれ。……大好き、なんて、迷惑だっただろう? 勝手に真菰が言ってるだけだから』
「違うのかっ!? 義勇は俺のことを大好きだと思ってはくれないのか!?」
『えっ? あ、あの……』
受けたショックのままに思わず叫ぶように言ってしまった杏寿郎は、うろたえる義勇の気配にハッとして、あわてて電話に向かって勢いよく頭を下げた。
「いきなり大声を出してしまってすまない!」
杏寿郎は、自分はたいがいのことには動じない質(たち)だと思っている。友人の評価も同様だ。杏寿郎が不安がったり怯えたりするところなんて見たことがないと、あきれや感心を露わに言う者は多かった。
なのに、義勇のことになるといつもこの有様(ありさま)だ。たやすく心が揺さぶられて、平静ではいられなくなる。こんなザマでは、義勇に頼られる男になるなんて、いったいつになるのだろう。
落ち込む杏寿郎の耳に、小さく押し殺した笑い声が聞こえてきた。
『今の声のほうが大きい。でも、いつもの杏寿郎らしい。なんかホッとした』
クスクスと忍び笑う義勇の声は、いつもよりも近くに聞こえる。耳元でささやかれているようで、杏寿郎の胸が甘くうずいた。電話での会話なんてめずらしくもないのに、相手が義勇であるだけで、なんだかすごいことをしているような気がしてくる。
「いつもと、違ってたか?」
『少しだけ。杏寿郎は電話だと静かなんだな。それに、いつもだったら杏寿郎がいっぱいしゃべってくれるのに、今日は俺のほうがしゃべってるから変な感じだ。いつもとは逆だな』
言われてみれば、そのとおりだ。静かなのも、話しかけられるまでしゃべらないのも、常ならば義勇のほうである。穏やかな少し固い声で淡々と話す義勇との会話は、杏寿郎が五話しかけて一返ってくれば万歳三唱ものなのだ。
作品名:真白の雲と君との奇跡 作家名:オバ/OBA