真白の雲と君との奇跡
義勇のことだけに頭も心も埋め尽くされる、眠れぬ夜。逢ったとたんに欲求が抑えられなくなって、義勇を問い詰めてしまったら。聞かぬように自制しても、抑えきれぬ自分の不安に義勇が気づいてしまったら。
杏寿郎は人前で泣いたことがない。泣いたこと自体、ろくに記憶になかった。けれど、義勇に軽蔑され嫌われたら、自分は泣くかもしれない。人目もはばからず大声で、駄々をこねる幼子のように。それでも嫌われるだけならまだ、名誉挽回するのだと頑張れる。だが、もしも自分が狭量な嫉妬で口にした言葉が、義勇を傷つけたら。つらい思いをしてきた義勇が、もしもまた傷ついてしまったら……それがなによりも、杏寿郎にはつらい。だから少しだけ、義勇に逢うのが怖かった。
だが、そんな懸念は杞憂だったようだ。実際に義勇に逢えば、鬱屈はたちまち小さくなっていく。
思っても見なかったことだが、もしかしたら自分はかなり嫉妬深いのかもしれない。杏寿郎は内心で歯がゆく唸った。
頭では冷静でいるつもりでも、ふとした瞬間に悋気が顔を出す。もともと義勇と仲が良くつきあいも長い錆兎や真菰に、義勇を取られてしまうかもと、不安に駆られてしまうのだろう。なんとも不甲斐ないことだ。
けれど今、義勇は杏寿郎と一緒にいる。いつでも行動をともにしている錆兎でも、幼いころから遊んでいたという真菰でもなく、杏寿郎とだ。千寿郎にだって厭うそぶりなどまるで見せずにいてくれる。義勇がまとう空気はやわらかい。
それだけでもいいじゃないか。杏寿郎は噛みしめるように胸中でつぶやいた。
逢えずにいた時間を思えば、こんなふうに一緒に出かけられるなど、僥倖としか言いようがない。想像することしかできなかった以前とくらべたら、贅沢すぎる悩みだ。
うん、と、ひとつうなずくと、杏寿郎はカラリと笑ってみせた。
「さぁ、行こうか! 結構長く電車に乗らねばならんからな。母がおやつも持たせてくれた」
「お弁当と水筒もです」
ホラ、と後ろを向き背負ったリュックを見せる千寿郎に、義勇の口元に小さな笑みが浮かんだ。
千寿郎だけは幼稚園の制服ではなく、Tシャツに短パンだ。白地にデフォルメされたライオンがプリントしてあるTシャツは、千寿郎のお気に入りである。
ライオンさんは兄上に似てます。そんなことを言って、一番好きな動物にはいつもライオンを挙げる千寿郎が、杏寿郎にはかわいくてならない。
麦わら帽子は、杏寿郎があげた去年の誕生日プレゼントだ。サイズは少し小さくなったようだが、千寿郎はまだ大丈夫ですと言い張って、今日もかぶってくれている。
誇らしいけれど、杏寿郎は、千寿郎のうれしげな顔にちょっぴり申しわけない気分にもなる。すぐにサイズがあわなくなるなんて、思ってもみなかった。自分はまだまだ配慮が足りない。来月に迫った今年の誕生日は、そのへんも考えてプレゼントを買わねばならないだろう。
身につけるものを子供に贈るときは、成長を見越すというのは大事なのかもしれない。自分の制服と同じだ。父と母の顔を思い出し、杏寿郎はなんとなく照れくさくなる。自分のブレザーやスラックスにまだ余裕があるのについては、ちょっぴり悔しくもなるけれども。
「俺も、おばさんが用意してくれた」
そう言う義勇も、先日とは違って少し荷物が多かった。肩にかけた大きめのトートバッグの中身は、杏寿郎たちと同じようなものらしい。弁当に水筒、石を入れるビニール袋とゴミ袋も。おやつも少し。
「それと……昨日、買ってきた」
言いながら義勇がバッグから取り出して見せてくれたのは、A5サイズの本だった。
「わぁ、石の図鑑ですねっ」
「俺が買ったのとは別だな。ホラ」
杏寿郎もスポーツバッグから新書版の図鑑を出して見せれば、義勇の海色の目がわずかに細められた。ほんのちょっぴり眉尻が下がっている。
「相談してからにすればよかった」
「そうだな、それなら一緒に買いに行けたのに残念だ」
無念そうに告げた杏寿郎に、義勇はキョトンとまばたいて、ふっと肩の力を抜くように小さく笑った。
「……うん、残念だ」
「ん?」
残念だというわりには、義勇はなんとはなし愉快そうだ。義勇の反応の意味がわからず、なにげなく千寿郎を見下ろせば、千寿郎も杏寿郎を見上げてきている。
見交わした視線をそろって義勇に向けて、一緒に首をかしげたら、義勇はますますおかしそうに笑みを見せてくれた。
義勇がどうして笑うのかはわからない。けれど、子供のころと同じ、花のように明るくやさしい笑みだ。
一緒に本屋に行けなかったのは寂しいが、きっと義勇も、今日を楽しみにしてくれていたのだろう。杏寿郎の胸は高鳴って、深く明るい笑みが顔いっぱいに広がった。
電話して以来胸に鬱積していた、解きがたい疑問や消えぬ不安が、小さく身をひそめていく。温かくて幸せな想いは、さざ波のようにやさしく心を揺らした。
せっかく義勇と一緒に出かけられるのだ。鬱々と思い悩んでいるなどもったいない。今日は千寿郎だっている。千寿郎であれば、いくら義勇と一緒にいたって自分も嫉妬することはあるまい。
かすかに残る不安を押し殺し、浮き立つ心のままに、杏寿郎は大きく声を張り上げた。
「さぁ、行こう!」
笑って杏寿郎は、歩きだす。義勇と千寿郎も、見合わせた顔をほころばせ、異口同音に同意の声を上げた。
「今日行く場所は、以前家族で行ったことがあるんだ。そのときは父の車でだったが、電車でのルートも調べてある! 道案内はまかせてくれ!」
準備は万全だ。道に迷って義勇や千寿郎に情けないところなど見せられない。
「頼もしいな」
胸を張った杏寿郎に、義勇は、やっぱり愛らしい白い花のように、やわらかく笑った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
さほど待つことなくやってきた電車に乗ると、幸運なことに、座席もちょうど三人分空いていた。
「風は強いが、あまり波打ち際によらなければ大丈夫だろう」
「どういうところなんだ?」
昔は夏恒例のテレビ番組でもお馴染みだったという海水浴場の近くだと、義勇には教えてある。けれども、詳しい場所までは話していない。たずねてきた義勇に杏寿郎が答えるより早く、千寿郎がパッと顔を輝かせて答えた。
「いっぱい石があるんです! 灰色の石が多いんですけど、よく見るときれいな石もいっぱいで、鳥さんが海でお水を飲んでるのも見ました!」
「鳥?」
「アオバトが群れで海水を飲みにくるんだ。そのせいか、バードウォッチングのスポットとしても知られているらしいぞ」
「鳥が潮水を飲むのか?」
「うむ。かえって喉が渇きそうなものだがな。エサが影響しているようだ」
「きれいなハトさんなんです。緑色で、とってもかわいいんですよ。羽だけ赤い子もいっぱいいました。今日もいるでしょうか、兄上」
「うぅむ、どうだろう。見られるといいな、千寿郎!」
「はい! 義勇さんにも見てもらいたいです!」
いつもは引っこみ思案で恥ずかしがり屋な千寿郎だが、今日はやけに声も大きく、ニコニコと満面の笑みを絶やさない。義勇に向ける顔もうれしさを隠せずにいる。
作品名:真白の雲と君との奇跡 作家名:オバ/OBA