真白の雲と君との奇跡
8
オー、アーオアオと低く鳴くアオバトの声が、高鳴る波音に紛れて聞こえる。絶え間なく届いてくる海水浴客の喧騒や、ときおり入る水難事故への忠告を呼び掛ける放送は、今この空間、この時が、日常と切り離されたものではないのを知らせるのに、なんだかひどく現実感がなかった。
仲良く飛ぶ二羽のアオバトが、岩礁に舞い降りるのが視界の端に見えた。全身緑の鳥と、緑のなかで羽だけが赤い鳥。番だろうか。きっと雄と雌だ。群れのなかで仲良く寄り添うように海水をついばむ鳥も、それが自然なのだと告げているような気がする。
隣り合って座る義勇と自分は、あのアオバトたちからはどう見えるのだろう。いぶかるようにも、うろたえているようにも見える義勇の顔に、杏寿郎はぼんやりとそんなことを考えた。
義勇といちばん仲良しの友達になりたい。幼いころにたった一度逢ったそのときから、ずっと思ってきた。忘れたことなんてなかった。毎年バレンタインには、義勇のぶんも大好きの証のチョコを買ってしまうぐらいに。
大好きの気持ちはいつまでも杏寿郎の胸にあって、再会してからはなおいっそう強く、深く、心に刻みこまれている。
でも、どうやら自分は、友人という関係だけでは物足りないらしい。
雄と雌――性別が違えばよかったのだろうか。義勇か自分が女の子なら、キスがしたいと思うことも自然だ。あのアオバトたちのように。
けれどもちらりと浮かんだそんな考えを、杏寿郎はすぐに一蹴した。
このままの自分だから、今、目の前にいるままの義勇だから、惹かれたのだ。義勇は義勇だからこそ、好きになった。毎日、毎日、今この瞬間も、もっと、ずっと、好きになる。
義勇は、友達になってはいけないと思っていたと、言った。友達だからキスはできないとも。後者はともかく、なぜ義勇が己を卑下するようなことを言うのか、杏寿郎にはわからない。少し腹が立ちもする。
苛立ちは、義勇に向けてではなく、理由を察することができずにいる自分自身に対してだ。もっとちゃんと、もっと前から義勇の話を聞いてやることができずにいた自分が、悔しくて、腹立たしい。
けれど、まだ遅くはないはずだ。
「話を聞いてくれと言っておいてなんだが、今は義勇の話のほうが重要そうだ」
どうか義勇の耳にやさしく届くといい。思いながら杏寿郎は一度義勇の手を離すと、立ちあがり義勇の後ろに回りこんだ。
不安げな様子でとまどう視線を向けてくる義勇に微笑みかけ、背中から抱きしめる。所在なげに震わせている白い手を、そっと両手で握りこんだ。
「もうひとつ、謝らなければならないな」
「え……?」
振り返ろうとする義勇の肩にトンっと顎先を乗せて、杏寿郎は小さく苦笑した。義勇の手はひどく冷たくなっているけれど、胸に触れる背中は熱い。夏の焼けるような陽射しのなか、満ちる潮の香に交じって、かすかに汗の匂いがした。ペパーミントの爽やかな香りがまじる、義勇の匂い。
狭い三和土に並んで座るよりも近くに、義勇がいる。自分の腕のなかに。義勇がまとう香りが、杏寿郎にそれを教えてくれる。
「話すのがつらいなら話さなくていいなんて、勝手に俺が決めつけてはいけなかった。義勇は、本当は話したかったのだろう? 凍りつきそうなら俺が温めると約束したのに、つらいなら話さなくていいなどと言ってしまって、すまなかった。だから、話してくれ」
思い出の本を読み返すことすらできない義勇は、それでも、杏寿郎が感想を告げるのをとがめなかった。静かに、穏やかに、そしてどこかうれしそうに聞いてくれていた。
両親を褒められて、面映ゆそうに笑っていた。姉の話をしたときのまなざしは、遠く眩しいものを見るようだった。
自分が心配そうな顔をしなければ、姉の話を義勇はつづけようとしていたのかもしれない。杏寿郎は、歯噛みする思いで自身の失態を悔いた。家にきたとき、両親のことを過去形で口にしなかった母に、義勇はなにを思ったろう。思い出の本の話を、どんな感情で聞いていたのか。思えばそれらはすべて、義勇からのSOSだったのではないだろうか。
思い出すこともつらくすべて忘れたいのなら、自ら口にしようとなんてしない。はにかむように笑ったり、ましてや思い出を共有するかのように本を貸したりなどしなかったはずだ。返さなくていいと言いはしたが、本の話はしないでくれなど、義勇は一度だって言ってはいない。
腕のなかの義勇は驚きからか身を固くしている。警戒してないといいのだけれどと、杏寿郎はかすかに思う。義勇に避けられるのは身を切られるようにつらい。だからまだ、義勇をかかえる腕に力はこめられない。
オーアオ、アーオアオと鳴くアオバトの声と、打ち寄せる波音がひびくなか、耳元に聞こえる義勇の息づかいは苦しげだ。無理やり義勇の心をこじ開けるようではいけない。きれいな心を踏みにじりたいわけじゃないのだ。
落ち着けと自分に言い聞かせ、杏寿郎はことさらゆっくりと言葉をつむいだ。
「義勇、さざれ石と同じなんだと俺は思う」
「……なに?」
「悲しみの話だ」
義勇を襲った絶望の百分の一だって、共感してやることはできないのかもしれない。杏寿郎の家族はみんな壮健で、仲睦まじい。大きすぎて飲みこむことのできない悲しさなど、杏寿郎は一度も感じたことはなかった。
それでも、寄り添うことが叶うなら。支える役目を任せてもらえるのなら。全身全霊をかけて、義勇に寄り添い、支えていきたい。
キスできない友達のままだって、義勇がそれを望むならかまわないと思う。こうして腕のなかに抱きしめ温めてやることが叶うなら、それだけできっと自分は満足だ。満足だと、思わなければならない。どんなにつらかろうと、義勇の悲しみやつらさにくらべたら、自分の切なさなど押し殺せる。
「大きな岩のような悲しみだろうと、時の流れに削られて、いつかはさざれ石みたいに小さくやさしい思い出ばかりが残るんじゃないだろうか。そして、電車のなかであのご婦人が言っていたように、今度は幸せな記憶という揺るがない巌に戻っていくんだ。きっとそうだ」
義勇の悲しみはまだ、大きな岩のように心を占めているのだろう。人の一生は短くて、千代に八千代にとはいかぬものだから、絶望の岩がすべて小さなさざれ石のようになるのはきっとむずかしい。義勇の絶望はまだ生々しく、重く、義勇の心を埋めつくしているのに違いなかった。
それでも、いつかと杏寿郎は願う。義勇の悲しみがやさしい思い出に変わり、幸せな記憶に笑えるまで、支えてゆくのだと誓う。義勇が拒んでも、許されるまであきらめない。ほかの誰にも、その役目を渡したくはなかった。
ふと、杏寿郎の胸に重みがかかった。力を抜いた義勇が持たれかかってきたのを知る。強く吹く風が二人の髪をなぶって、杏寿郎の頬が義勇の髪でくすぐられた。
「錆兎も、真菰も、おじさんたちも……みんな、つらいなら話さなくていいって」
「うん」
義勇の声は震えていた。絞り出すような声だった。
作品名:真白の雲と君との奇跡 作家名:オバ/OBA